ユナは、夜明け前の青い森を歩いていた。霧がゆっくりと流れてゆく。
 見上げると、かえでに似た背の高い木々の、透けるような葉を通して、名残の星が瞬いている。どこかで春歌鳥はるうたどりが歌い、それから、鳥たちのコーラスが始まった。
 彼女の長い髪も、まつげも、ひざ丈の白いローブも、濃い霧にしっとりと濡れている。
 誰かが、後ろを歩いていた。そのやさしいまなざしが、背中にはっきりと感じられる。
「デュー?」ユナは振り向く。
 そのとたん、すべてが霧にとけ、幻のように消えていった……。
「デュー!」ユナは跳ね起きる。
 夢||。また同じ夢だ。
 ユナはため息をもらす。ただひとついつもと違うのは、デューの名前を呼んだこと。
 カーテンから朝の光が漏れている。今日も彼に弓を教わるのだ。
 ユナは寝台からすべり降り、チェストの上の水差しから陶製の器に水をあけると、夢の名残を振り払うように、冷たい水で顔を洗った。
 
 デューの指導のもと、ユナは日々稽古に励んだ。一度つかんだ勘は、二度と忘れることはなく、五日目には、遠く離れた標的を、ほぼ正確に狙えるようになった。
「きみにはほんとに驚かされるよ」デューはいった。「普通はここまで何年もかかるのに」
「小さいころから、運動神経だけはいいの」ユナは笑う。「なにより、先生が一流だし」
「そうじゃない。きみには天賦の才があるよ」
 デューに見つめられ、息が苦しくなる。けれどユナは、どこか悲しげな彼の瞳から、目をそらすことができなかった。その澄んだ瞳には、なにかがあった。
 ふたりは弓を手に、館の方へ歩きだす。たそがれの神秘のひととき。白樺の木立で星ツグミが歌い、色に染まる空には、ひときわ明るい星が瞬いている。
「星って大好き」ユナは吐息をもらし、遠く思いを馳せるようにいう。「父はわたしがひとつのときに死んじゃって、思い出はなにもないけど、よくこんな空想をした。父と草の上に寝転んで星空を見上げていて、降るような星は、手を伸ばせば届きそうで、信じられないほどきれいでね。いつまでも父と一緒にいられますようにって、心の中で願っているの……。ばかみたいね。一緒にいられないのはわかっているのに」
「いや。少しもばかげてなんかいないよ」
 その声はやさしく、まなざしはしんだった。ユナはまつげをふせる。少しのあいだ、彼女は口を閉ざし、物思いに沈んで歩いた。
 夕風は心地よく、林檎園のやさしい香りを運んできて、こうして歩くうちにも、空は薔薇色からやわらかな薄紫へ、刻々と色を変え、鳥たちがねぐらへ急ぐなか、星ツグミだけは、まださかんに歌っている。野うさぎの親子が芝生を横切り、デューとユナの前で立ち止まると、前足をあげて一瞬じっとこちらを見た。それから、ふたたび走り去ってゆく。セティ・ロルダの館は平和そのものだった。
 だが、同じ夕空の下、テタイアの戦場では兵士たちが戦っているのだ……。
「ユナ、古代の預言書を読んだことがある?」デューがいう。
 ユナはかぶりを振った。
「影の力を止める者が現れるとフィーンの預言者が語ったあと、こうあるんだよ。
 
『人びとがその者は誰なのかとたずねると
預言者レクストゥールはこたえていった。
 
 さだめられた者は ただひとり。
 金の衣をまとい
 紫の石を身につける者。
 されど ことのじょうじゅ
 より大いなる力による。
 闇は闇を助け
 光は光を助ける。
 そのことを心にとめなさい。
 それを悟らねば
 冬のなげきが 地上を包む。
 
けれども、人びとは悟らなかった』」
 
 澄んだ声が黄昏の庭に響き、あたかも古い時代がここによみがえったかのように思われた。
 金の衣と紫の石の話は、から聞いたことがある。人びとは金の衣装と紫の宝石を身につける者を探したけれど、それは、ルシタナの金の髪と紫の瞳のことだったのだと。だが、その先は聞いたことがなかった。
「より大いなる力って、神の力とかなにか?」
「そうだね。結局はそれにつながるんだろうけど、ぼくはひとりひとりの気持ちのことだと思ってる。どれだけ真剣に平和を望んでいるか、調和の中で生きたいと願っているかということだと。当時の文明は、いまより遙かに発達していたといわれている。フィーンはその高度な文明を知っていたはずなのに、決して教えようとしない。なぜだと思う?」
 そんなことは考えたこともなかった。ユナは頭をめぐらす。
「それが間違った方向に||平和をおびやかすような方向に向かっていたから?」
「おそらくね」デューはうなずいた。「二千年前、ルシタナが預言を成就できなかったのは、そして、人の世界が滅びてしまったのは、宇宙の大きなせつによるんじゃないかな」
「じゃあ、どっちみち滅びる運命だったってこと?」
「いや、そうではなくて、世界はきっと、瀬戸際に立たされていたんだ。滅びるか、踏みとどまるか、文字通りぎりぎりの。けれども||
「人びとは悟らなかった……」ユナはささやく。 
「かつて、きみは最善を尽くしたんだ。ずっとそう信じていたけれど、きみを見て、その確信を深めたよ」
 ユナはほおを染める。もちろん、自分を元気づけるためにいってくれた言葉だ。それでも、胸の奥が熱くなった。
「ただ、世の中はすでに、ひとりの力ではどうにもならないところまで行っていたんだろう。いまの状況も、当時と重なるところがある」
「そう? それほど間違った方向へ進んでいるようには見えないけど」
「見かけはね。だけど、意識は文明の先を行くんだ。ルシナン王室は、平和を模索する陰で、新たな武器の開発を進めている。テダントンや、それにテタイアも」
「新たな武器? ||どんな?」
「火薬を使った武器だよ。鉱山の採掘に使われる火薬で、一度に大勢を殺傷する兵器だ」
 一度に大勢を……。
「それでも、ぼくは悲観していない」揺るぎない信念を抱いた瞳が、まっすぐに彼女を見つめた。「まだまにあうよ、ユナ。ぼくたちにはチャンスが残されているんだ」