第13章 前半へ12第13章 後半へ

 せんじた薬草の香りが部屋を満たしていた。窓辺のベッドには、ルドウィンが横たわっている。ここに来るあいだに完全に意識を失っており、浅い苦しげな呼吸をしていた。
 かたわらには、エレタナとユナがいる。ユナは、助手を務めてほしいとエレタナに頼まれたのだった。ふたりはシャツを脱がせ、血がべっとりと染みついた包帯を取り、脇腹が下になるように身体の位置を変えた。
「あの者たちの毒は、とても恐ろしいのです」エレタナは小さな青いびんを手に取ると、透明な液体で傷を洗った。
 それから、片手をその深い傷の上に置くと、少しのあいだ、彼のかたわらで、そのまま静かに座っていた。
 乱れていたルドウィンの呼吸が、次第にゆっくり落ち着いて、その表情もやわらいでくる。
 ユナは、湯にひたした清潔なガーゼをしぼって、彼の身体をふいた。つい先ほどまで燃えるようだったのに、熱もすっかり下がっている。
「さあ。これでいいわ」エレタナが立ち上がった。
わなくていいの?」ユナはびっくりする。
「ええ」エレタナはにっこり笑った。
 驚いたことに、傷口はふさがっていた。
「このひとは、信じられないほどの体力の持ち主ね」エレタナは言葉を継ぐ。「普通の人なら、この館までもたなかったでしょう」
 ユナは、包帯を巻くのを手伝いながら、肩から胸にかけての、引きしまった筋肉を眺める。たくましいけれど、すっきりと無駄がない。
 そのときふと、不思議な思いがよぎった。前にもこうしてエレタナを手伝って、誰かの手当をしなかっただろうか……。
 それから、すぐに我にかえる。なにをばかなことを。ユナはかぶりを振り、包帯を巻くのに専念した。
「とにかく、助かってよかったわ」終わると、口にだしていう。
「そうね」エレタナは、煎じ薬をスプーンにすくい、ルドウィンの口をそっとひらいて、静かに注いだ。「あとは、ゆっくり休めばだいじょうぶよ」
「ありがとうございます。ヒューディも、これで安心するわ。彼、ルドのことが心配で、ここまでついてきたんです。偶然手紙をあずかっただけなのに||。そうだわ、これ」
 ユナは、首からさげていたベルベットの袋を外して、エレタナにさしだす。
 エレタナは黙って受け取り、中の水晶を取りだした。さまざまな者の手をへて、ふたたび持ち主のもとにかえったその石は、なにごともなかったかのように、その手の中で澄んだ輝きを放った。
「その水晶で、わたしがウォルダナにいると||?」
「ええ」エレタナはうなずく。「それで、時が満ちたとき、ルドウィン王子にあなたを探してほしいと頼んだの。彼なら、あなたを無事に連れてきてくれるとわかっていたから」彼女はルドウィンを見つめ、それから、静かに瞳をあげた。「ユナ……。この水晶は、わたしのなぐさめでした」
 限りなくやさしいまなざしが、ヴェールのようにユナを包む。
「いつも見ていたわ。成長してゆくあなたのことを」
「いつも||?」ユナはささやく。「わたしが生まれたときから?」
 エレタナは瞳でうなずき、片手を水晶の上にふわりとかざした。
 淡い光とともに、水晶には、ルドウィンが馬車の中でさしだしたときと同じユナの姿が浮かび上がる。
 やがてそれは、十七歳の誕生日||あのダンスパーティの日の、身支度を調えたユナにとってかわった。シフォンのドレスに身を包み、レアナと並んで階段を降りてゆく幸せそのもののユナ。
 それから、小さな教室が映しだされた。熱心に先生を見るレアナの隣で、夢見がちに窓の外を見ているユナ。続いて、引っ越してゆくヒューディの一家を見送った夏の日。わんわん泣きながら、去ってゆく馬車にいつまでも手を振るユナ。彼女の隣で、やはり手を振りながら、そっと涙を流すレアナ。ふたりはさらに幼くなって、ヒューディと三人で、ローレアの花咲く丘を、笑いながら走っている……。
 そうして水晶は、さまざまな出来事を映しながら、ユナの人生を過去へとさかのぼっていった。
 最後に、水晶の中のユナは、愛らしい赤ん坊になった。揺りかごの中ですやすやと眠るその赤ん坊を、若い男女がそっと見守っている。女性の胸もとには、ローレアをかたどったペンダント……。やがて、ふたりのやさしい面影も、赤ん坊の平和な寝顔も、淡い光の中にゆっくりと消えていった
 ユナは黙ったままエレタナに身を寄せ、澄みきった石に戻った水晶を見つめる。
 彼女は時間の中を旅して、これまでの人生をもう一度生きたのだった。失われた時は、すべてそこにあった。
 いや、失われた時など、本当はないのかもしれない。水晶の中にすべて存在していたように、自分の中にすべて存在しているのかも。いまも、生まれてきたときも、わたしはわたしだったのだ。だとしたら、その前もずっと||
 そんなことを考えたとき、ユナはふと、不思議な感覚に包まれた。
 気がつくと、彼女は光のような存在になって、大空高く浮かんでいた。ふわふわとただよいながら、彼女は広大な大陸を見おろす。眼下には、白銀の峰をいただく山並みが連なっている。ウォロー山脈。それをはさんで、両側にはそれぞれ、ウォルダナとルシナンの大平原が広がっている。そして、ルシナンの大平原のはるか彼方には、ひとすじの川を隔てて、淡い輝きに包まれたような神秘的な世界があった。
 それらの美しい世界を、彼女はある決意を秘めて見おろしていた。そして、意識の奥にその美しさを刻み込むように、もう一度すべてを見つめたあと、ウォルダナの小さな村へ、ゆっくりと舞い降りていった||
 
 ユナは、はっと目を覚ました。
 目の前のエレタナの姿に、どこにいるかを思いだす。
「ごめんなさい」
 水晶の中の自分が赤ん坊になって、それが消えたところまでは覚えているのだけれど、そのあと、眠ってしまったようだ。
「いいのよ」エレタナはやさしくいう。「いまは先のことは考えずに、ゆっくり休んで」
 そのいつくしみに満ちた声に、ユナは、ずっと張り詰めていた気持ちが溶けてゆくのを感じた。
「ありがとうございます」彼女はいい、それから、ひとりごとのようにつぶやいた。「いけない、忘れるところだった||」ぱっと立ちあがり、「ここで待っていてくださいね」
 部屋をでて、すぐに戻ってくると、ユナはリボンをかけた小箱をさしだした。
「これ、あなたに」
「まあ……」
 エレタナがそっとリボンをほどくと、小箱の中から、シルクの布に包まれた繊細せんさいなガラス瓶が姿をあらわした。
「ローレアの香水です」ユナはいう。「ローレアは、ウォルダナにだけ咲く花なんです」
 エレタナは、なにもいわずに小さなガラス瓶を見つめた。紫の瞳が翳り、どこか切なげな表情が浮かぶ。
「ごめんなさい」ユナは急いでいった。「エルディラーヌにはきっと、きれいな花がたくさんあって、香水だって、もっと素敵なものがありますよね。でも、わたし、昔からローレアが大好きで。それで、ルドウィンの側近がいくつか用意してくれた中から選んだんです。だから、ほんとはわたしからとはいえないけど、ウォルダナのものでなにかひとつといわれたら、やっぱりローレアの香水にしたと思います。自分で使っちゃおうかなって思ったくらい」
 エレタナの瞳に笑みが浮かぶ。彼女は、やさしくユナを抱きしめた。
「ありがとう、ユナ。うれしいわ」
 
 その夜は、ウォルダナからの旅人のために晩餐ばんさん会が催された。連合軍の最高司令官であるトリユース将軍が、心を込めて用意させたものだった。
 将軍はルシナン国王の弟で、濃い眉に鋭い目、びっしりと生やした立派な鬚が強烈な印象を与える男だった。ヤンは会食の前に、ルドウィンの代理として、国王からの書面を彼に渡した。ウォルダナの連合国参加を表明するもので、事実上の参戦である。
 それがすむと、トリユースは、各国を代表するひとりひとりのメンバーを紹介した。ルシナン、テダントン、テタイア、そして、エルディラーヌから訪れているフィーンたち。総勢四十名が、大きな楕円のテーブルを囲んだのだった。
 景気よくシャンパンの栓が抜かれ、めいめいのグラスに、泡を立ててきらめきながら注がれた。トリユースは、歓迎の言葉を、こう締めくくった。
「われわれの命運を懸けた最大の決戦が近づいています。作戦会議は、現在テタイアに視察に送っている使者たちが戻り次第、開かれることになるでしょう。それまではどうか、各国の代表と親睦を深め、よきひとときをお過ごしください」
 晩餐会は、終始なごやかな雰囲気だった。
「なあ、ヒューディ」口の中に猛烈な勢いでご馳走を詰め込みながら、フォゼがもごもごといった。「ほんとにそこにいるフィーンたちは、何千年も生きてるわけ?」
「さあ。自分で聞いてみろよ」ヒューディはそっけなくいう。目の前で冷やされているワインの瓶を見て、頭を殴られたときのことを思いだしたのだ。
 フォゼの方では、そんなことはすっかり忘れていた。
「フィーンって、大人になったら年を取るのをやめちまうっていうけど、そんじゃいったいどうやって区別するんだ? ひいちゃんも、祖父ちゃんも、父ちゃんも母ちゃんも、息子も、孫も、ひ孫も、みんな同じじゃないか。それに、誕生日が何回来たかなんて、どうやって覚えてんだ?」
「きっとフィーンは記憶力がいいのさ。じろじろ見るなよ。失礼だろ?」
 そうはいったものの、見ずにはいられない気持ちは、ヒューディにもよくわかった。
 フィーンたちはみな、流れるような金髪で、肌も透けるように美しく、あたかも内側から光が発せられているような淡い輝きを帯びている。誰しも若く見えたが、ただひとつ、瞳だけがそうではないと語っていた。それは、何千年もの歳月を見つめてきた者の瞳||静かで深い瞳だった。
 なかでも、エレタナの悲しみを秘めた神秘的な瞳は、ヒューディの胸を強く打った。それは野に咲くすみれのように深い紫で、森の中の湖のように澄んでいた。ほかのことはどうであれ、彼女が伝説の王女エレタナであることだけは、素直に信じることができた。彼女のほかには誰もありえなかった。
「それいらないのか? うまいぜ」
 フォゼの手が横から伸びて、ヒューディの皿にのっていた料理をかすめとる。大きな肉のかたまりを口に放り込むフォゼを見て、思わずため息をついた。
「ルドが生死の境をさまよってたってのに、よく平気でそんなに食えるな」
「俺が食わなきゃ、王子がよくなるってわけじゃないだろ?」
「たとえそうだとしても、おまえはそうしないよな」
 そのつぶやきは、フォゼには聞こえなかった。通りかかった給仕をつかまえ、おかわりを頼むのに忙しかったからだ。
 彼らの向かいでは、デューとユナが、トリユース将軍と話していた。
「例の事件の手がかりはつかめましたか?」デューの問いかけに、将軍は顔を曇らせる。
「いや、まだなにひとつ」
「例の事件って、なんですか?」とユナ。
「奇妙なことが続いているんだ」デューがいう。「連合軍のいくつもの部隊が、あちこちでごっそりと姿を消しているんだよ」
「ごっそりと?」
「さよう」将軍がうなずいた。「天幕やき火を残したまま、野営地が丸ごと、もぬけのからになっていることもありましてな、いまだに、どの部隊の消息もつかめないのです」