夜明け前。ジョージョーは、注意をおこたることなくあたりの様子をうかがっていた。
 隣では、ユナがひざを抱えたまま眠っている。彼女は夜番の相棒で、深夜に王子と交替したあと、しばらく一緒に起きていたが、そのうちうとうとして眠ってしまった。
 前回の夜番のときは、ふたりとも気を張りつめ、励まし合って起きていたけれど、ジョージョーはそのままそっと寝かせておいた。不思議な水晶に現れ、恐ろしい灰色どもに追われているユナ。王子と密かにルシナンに向かうのには、深い事情があるに違いない。なのに、自分たちが水晶を盗んだせいで、危ない目にわせてしまって……。
 ヒューディが目を覚まし、ひとつ大きなのびをした。
「おはよう」ジョージョーはいう。
「やあ、おはよう!」ヒューディは笑顔でこたえ、ユナが眠っているのに目を留め、そっと歩み寄った。「ユナ。おはよう」
「ヒューディ……?」眠そうに瞬きしたあと、ユナの目が大きく開く。それから、はっとしたようにジョージョーを見た。「ごめんなさい! わたし、寝てたのね」
「かまわないよ。俺、全然眠くなかったから」
「ありがとう、ジョージョー」ユナは彼の腕に手をかけ、「やさしいのね」
 やわらかで繊細な手。やさしいなどといわれたのは初めてで、不意に胸がきゅっと痛み、ジョージョーはうろたえる。そのあとヒューディがこういったので、内心ほっと息をついた。
「ユナ。水を汲みに行かないか?」
 
 ヒューディとユナは、馬を連れて、ゆるやかな草地を小川へと降りていった。
 明け切らない空のもと、春歌鳥はるうたどりが歌い始める。ふたりは顔を洗って喉をうるおし、世界がゆっくりと色づいてゆくなか、ふたりは忘れな草が風に揺れる岸辺に腰をおろす。
「きれい……」澄んだ流れを見つめ、ユナはため息を漏らした。「なにもかも、夢だといいのに。ダンスパーティの日からいままでのこと、なにもかも」
 ヒューディは黙ってユナを見る。
「目が覚めたら、ダンスパーティの朝でね、あなたとレアナとわたしで、パスターさんの馬車に乗って、村の広場に行って、そして、三人で思い切り楽しい夜を過ごすの。あいつらは現れなくて、みんなで一晩中踊って」
 ヒューディはほほえんだ。
「ルドはやっぱりユナと踊るかな」
「かもね」流れを見つめたまま、ユナはどうでもいいことのように肩をすくめ、「そのあとわたしは、誰か素敵な男性と踊って、あなたはレアナと踊るの。そして、打ち明ける」
 馬たちは水を飲み終えて静かにたたずみ、鳥のさえずりと、さらさらという水音だけが響いている。ヒューディはささやく。
「『ずっと、きみが好きだった……』」
「レアナはいうわ。『わたしも』」
うそでもうれしいよ」
「嘘じゃないわ。わたしにはわかる」
 ユナのやさしさが、胸に染みた。
 
 連合軍の参謀本部は、南アルディス海の沿岸に近い白銀の谷にある。一行は大平原を北西に進み、リュート川の浅瀬を渡ったあと、野宿をするか、人里離れた民家に宿を借り、西へ西へと旅を続けた。
 その日、彼らは小さなくぼに陣取っていた。あたりはごくなだらかな丘陵地帯で、そこだけ池でもあったかのように、きれいな円形に落ち込んでいる。ヤンは、野生動物の泥浴び場のあとだろうといった。
 旅立って初めての新月のよい。晴れていれば満天の星が望めただろうが、夕食が終わるころ薄い雲が出てきて、輝き始めたばかりの星が、ひとつひとつ消えていった。
 
 真夜中だった。フォゼは窪地の上でひざを抱え、物思いにふけっていた。少し前、ヒューディと夜番を替わったところで、空は一面雲に覆われ、地上にはなま暖かい空気が垂れ込めている。
 職業柄、こんな闇夜は得意だったから、普段なら、どんなかすかな気配も逃さないところだ。けれど、今夜の彼は猫の子ほども役に立ちそうになかった。
 じきに参謀本部に着く。そうしたら、自分はどうなるのだろう。もう必要とされることはなにひとつない。夜番だって要らないのだ。本物の護衛がいるのだから。せめて料理でも得意だったら、コックとして置いてもらえるだろうに、食べる方は得意だが、作る方はいつもジョージョーにまかせていた。もしかして、着いたとたん牢にぶち込まれたりして。
 こういい放ったルドウィンの声が耳によみがえる。
 ||地下牢にぶちこんでおけ。処分はあとから考える||
 風が出て雲が切れ、夜空の晴れ間から星々が淡い光を投げかけた。フォゼは、闇に慣れた目で窪地を見おろす。みんなすっかり寝入っているようだった。
 彼は心を決めた。そっと窪地に降り、食料の麻袋から、ジャガイモやチーズ、厚焼きビスケットなどを自分の荷物に詰めこむ。
 許せ、相棒。彼はジョージョーの寝姿を見つめる。おまえはコックとして立派に生き残れよ。それから、ルドウィンに目をやった。あばよ、王子。もう二度とつかまるもんか。
 そのとき、王子の腰の短剣が、ふと彼の目を惹いた。柄と鞘に繊細な彫りがほどこされた美しい短剣だ。王子は長剣も帯びている。こちらを失敬したところで、さほど不自由はしないだろう。
 忍び足で近づく。ルドウィンの厚い胸は、呼吸に合わせて規則正しく上下している。ふところには、例の水晶が忍ばせてあるに違いないが、もうかかわる気はなかった。あれはなにやらわけありだ。へたをすると、また灰色が現れるだろう。だが、この短剣なら||
 心臓が激しく打つなか、フォゼは身をかがめ、汗ばんだ手を伸ばす。
 次の瞬間、その手がぐいっとひねられ、気がつくと、ルドウィンに組み敷かれていた。
「しっ」ルドウィンがささやく。
 背後で、馬たちが身じろぎをした。
 
 ヒューディは、はっと目を覚ました。隣にいたユナも、同時に目を覚ます。
 馬たちが落ち着かなげに足踏みをしていた。
「様子を見てくる」ヒューディはささやき、窪地の斜面を登る。
 ルドウィンとヤンはすでに上にいた。
 声をかけようとしたとき、夜風が雲を散らし、こぼれるような星々のもと、灰色の騎士の姿が浮かび上がった。
 ヒューディは息を呑む。全部で十騎||あるいは、それ以上か。
 灰色どもは、こちらに馬を進めながら、窪地を包囲するように横に広がってゆく。
「奴らだ!」ルドウィンが、窪地を振り返って叫んだ。
 あたかも、それを合図にしたかのように、騎士たちが一斉に剣を抜き、彼の正面にいた一騎が、馬の腹を蹴って突進してきた。
 ヒュッ! 短剣がルドウィンの手を離れ、駆けてきた一騎の胸に、深々と刺さった。騎士はもんどり打って落馬する。
 リーダーとおぼしき男が、大声で何か命じ、騎士たちは次々と馬から降りた。
 ルドウィンは剣を抜き、ヤンはやりを構え、ヒューディも汗ばむ手で短剣を握りしめる。
 灰色たちも剣を構え、一斉に地面を蹴った。