ユナは、シダの上に敷いた布の上で、どうにか眠ろうと努めていた。
 時おりなきどりが不気味な声をあげるほか、沢の音がするだけで、森は静かだったが、闇の中からは、わけのわからないものが飛びだしてきそうだ。そのうえ、寝心地は悪いし、隣で寝ているヒューディが足先をってくる。
「ヒューディ、それ、わたしの足よ」ユナはささやく。
「なにもしてないよ」眠そうな声が返ってきた。
「ううん、ほら、また蹴った」
「ほんとなにもしてないって」
 ヒューディったら。ユナは頭を起こす。と、焚き火の明かりに、チョロチョロと動き回る巨大なネズミの姿が浮かび上がった。ユナはすさまじい悲鳴を上げる。
 全員が飛び起きた。ジョージョーは連鎖反応的に叫び、ルドウィンは短剣を抜き、ヒューディは立とうとして木の根につまずき、フォゼは食料の入った袋を抱え込む。ただひとり、夜番をしていたヤンだけが、ユナの足もとから走り去った生き物を見ていた。
「モリネズミです。きわめて温厚で、人に危害は加えません。見た目は大きいですが」
「大きい? 大きいどこじゃないわ」ユナの心臓はすさまじい勢いで打っている。「ただでさえ、ネズミはこの世で一番苦手なんだから」
「ネズミだって?」ルドウィンがいう。「たかがネズミ一匹で、みんなを起こしたのか?」
「起こしたわけじゃないわよ」
「あれだけの声を聞けば、誰だって目を覚ます。われわれはここにいますと宣言してるようなもんだ。ネズミが苦手なら苦手でけっこう。ただし、目にしても悲鳴を上げるな。絶対に」
「そんなの無理よ。あなただって、苦手なものはあるでしょ?」
「ああ。ひとつだけあるね」ルドウィンは横になる。「女の悲鳴だ」
 もう我慢の限界というものだった。
「いいこと、ルド? いっとくけど、わたしが来たのは、ばかげた昔話ごっこにつきあうためじゃないのよ! わたしが残れば大切な人たちを危険に巻き込んじゃうから。ただ、それだけ。そのなんとか本部ってとこに着いたら、一歩も動きませんからね!」
 一気にいって、反応を待つ。だが、聞こえてきたのは、規則正しい寝息だけだった。
「なんて人! ネズミもあんたも最低よ!」
 ユナはすすり泣き、ヒューディが彼女の肩をそっと抱いてなぐさめる。
「ヤン」フォゼがいった。「そのモリネズミってのは、丸焼きにして食えるのかな?」
 
 ヒューディは、誰かに揺すられて目を覚ました。
「交替の時間です」そうささやく声がして、ヤンがすぐわきでひざをついていた。
 ぼうっと彼を見つめたあと、これから朝まで寝ずの番だと気がついて、急いで身を起こす。フォゼに殴られた後頭部がズキンと痛み、ヒューディは顔をしかめた。
 身体にかけていた上衣をはおり、膝を抱えて焚き火のそばに座る。炎は熱いのに、背筋がぞくぞくした。闇は敵意に満ち、時間は止まっているとしか思えないほどのろのろと過ぎて、朝は永遠に来ないかと思われた。
 ガサッという物音に、ヒューディは我に返る。いつのまにかうとうとしていたらしい。あたりには、ほんのり夜明けの気配が漂っていた。
 ザッ。また音がした。後ろからだ。なんだかいやな感じがする。そっと振り向き、ヒューディは飛び上がりそうになった。人の腕ほどもある木の根が、彼ににじり寄っていたのだ。次の瞬間、木の根は指のような先端をもたげ、襲いかかってきた。
「わーっ!」ヒューディは夢中で腕を払う。
「どうした?」ルドウィンが飛んできた。
「根っこが||木の根っこが襲ってきた」彼は目で後ろをさす。地面には、大きく腕をもたげたような根がいくつも張り出している。||ただし、どれもじっと動かない。
「ヒューディ」ルドウィンはあきれたようにいう。「恐い恐いと思ってると、人はまぼろしを見るんだ。さあ、もう夜が明ける。沢で水を汲んできてくれ。迷子になるなよ」
 
 ヒューディは水おけを手に、くさくさしながら沢に向かった。あれは幻なんかじゃない。根っこは確かに襲ってきたのだ。迷子になるなよだって? 沢は近いし、昨日も馬を連れて行った。迷子になんかなりようがないじゃないか。
 ヒューディは沢に着き、苔や草に足をとられながら水辺に降りる。
 夜明けの森を流れる水は清らかで、両手ですくって飲むと、生き返る心地がした。王子に対する腹立たしさも、いつしか静まってゆく。
 水桶を満たして立ちあがったとき、足もとに霧が流れてきた。振り返ると、真っ白な霧が斜面を埋め尽くしながら降りてくる。一瞬にして、足もとが見えなくなった。
 地面を踏む感覚を頼りに斜面を登る。そして、息を呑んだ。あたり一面、深い霧におおわれ、まるで方向がわからない。仕方なく、見当をつけて歩き始め、つと足を止めた。
 キキキ……。どこからか、奇妙な笑い声が聞こえてくる。キキキキキ……。
「誰だ!」
 そう叫んだ瞬間、霧がぼうっと光り、異様な化け物が飛びだしてきた。
 きのこそっくりで、かさの部分に無表情な目とぱっくり裂けた口があり、しきりにキキキと笑っているのだった。丈は彼の胸ほどで、透けるように白くぼうっと光っている。
 腕から力が抜け、水桶が地面に落ちた。
 それを合図にしたかのように、霧の中から、次々ときのこの化け物が飛び出してくる。
 彼は水桶をつかんで走り出した。化け物たちがいっせいに追ってくるなか、無我夢中で走り、気がついたときには、草と苔で覆われた斜面を、沢へと転がり落ちていった……。
 
「いったいどうしたんだ?」
 ずぶ濡れになって戻ってきたヒューディの姿に、ルドウィンは目を丸くした。
「朝飯食わずに待ってたんだぜ」フォゼがいう。「もう少しで飢え死にするとこだったよ」
「こっちは、もう少しで化け物の餌食になるとこだったよ」
 みんなきょとんとした。ヤンだけが心配そうに彼を見て、水桶を受けとる。
「さあ、濡れた服を脱いで、火におあたりなさい」
「そうよ、ヒューディ。ふるえているじゃない」ユナがいう。
「ユナ!」ヒューディはその手をとり、「きのこの化け物が出たんだ!」
「また幻を見たのか?」ルドウィンがいう。
「幻じゃないよ!」ぱっと彼を見上げ、「この目で見たんだ! きのこそっくりで、ぱっくり裂けた口でキキキと笑って、半分透けて光ってて、霧の中から飛び出してきたんだ!」
「ほう。で、その化け物ってのはどうしたんだ?」
「消えた……」
 ルドウィンは指先で軽く彼のほおをたたく。
「それが幻ってもんさ。ちゃんと目を覚ませば、あとかたもなく消える」
「ユナ」彼女に向き直ると、握る手に力を込め、「きみは信じてくれるよね?」
「ヒューディ」ユナはやさしくいった。「慣れない夜番なんかして、きっと疲れたのね」