第44章
ユニコーンをかたどった噴水が、澄んだ音色を奏でるなか、リーはゆったりした半円形の長椅子に座り、両側にはエヴェイン王妃とヨルセイスが腰掛けていた。
この庭園も王宮も、どこか不思議となつかしく、彼の左手首では、三粒のダイヤモンドが歌うようにきらめいている。返そうとしたのだが、エレタナから、すっかりよくなるまで、ずっと身につけているよういわれたのだった。
ふと、黒いローブ姿の男の夢が思い出される。男が大いなるダイヤモンドから剣を切り出し、涙のような
「そのことは、あなたがここにいるあいだに話しましょう」リーの心を読んで、ヨルセイスがいった。「わたしたちのダイヤモンドにまつわる古い物語をなにもかも」
「ほんと?」
「ええ、リー」反対側からエヴェイン王妃がほほえみかける。「ヨルセイスは、遠い昔に失われてしまったフィーンの故郷のことも知っているの。でも、今日はそれより、
「ユナが||ルシタナが、戻ってきたからだね?」
「ええ、そうよ。みんな、ずっとこの日を待ちわびていたの。わたしたちにとって、ルシタナを失った悲しみは本当に深かったから……」
そのことは彼も感じていた。船着き場でユナを出迎えた王と王妃のまなざしに。船着き場から王宮までの道々や王宮の正面で、フィーンたちが息を呑み、ひざを折ってユナを迎える姿に。エレタナの
リーは
ユニコーンの噴水の向こう、そのユリスがルドウィンと談笑しているのが見えた。近くでは、ユナと姉のラシルが王女たちと話している。
そこへ、ワイス少佐とパーシー大尉がやってきた。
パーシー大尉はワイス少佐の旧友で、ひょろりと背が高く、ふさふさした金髪と明るい茶色の目をした若者だ。彼がなにか冗談をいったのか、楽しげな笑い声が上がる。
「
星がひとつ、またひとつと姿を見せるころ、一行は庭園から柱廊を通って、王宮の上の階へと案内された。そこは、優美な円柱に囲まれた大広間で、
そして星々が輝きを増すころ、楽師たちが円舞曲を奏で始めた。
オーベンレンガー王がエヴェイン王妃の手を取る。王妃の
デューもエレタナを星降るテラスへと
夢のように美しいふた組の姿に、まわりから無数の吐息がもれた。
それから、みな次々と踊りだし、あっというまに陽気な輪が広がる。
ユナは、ルドウィンとともにテラスに近い席にいたが、エレタナとデューの輝くような笑顔に、幸せな気持ちでいっぱいになった。
「きみを誘いたいけど、残念だな」ルドウィンがいう。
「そうですね」リーと並んで向かいの席にいたヨルセイスが、神妙にうなずき、「ユナの身体では、まだ少し、あなたと踊るのは難しいでしょう」
「ふたりとも、踊ってきて。わたし、リーとここにいるから」
「ルドウィン!」明るい声が響いた。
ユリス王子が片手をあげて、手招きしている。
「レファンが戻ってきた!」
「レファンって?」ユナはルドウィンに聞いた。
「ユリスの腹心だよ。ちょっと行ってくる」
ルドウィンは立ち上がり、そちらへ向かう。彼を目で追おうとして、ユナはふと、うなじに誰かの視線を感じる。小さく眉をよせて、振り向いた。
斜め後ろ、円柱の陰から姿を現したのは、先ほどまでテラスで踊っていたオーベンレンガー王。エヴェイン王妃をともなって、こちらに歩いてくる。
「ユナ」王妃がほほえみかけた。「ヨルセイスがいうように、踊るのはまだ少し難しいでしょう。ただ||」
王妃の瑠璃色の瞳が王を見上げ、そのまなざしを受けて、王はおもむろに言葉を継ぐ。
「相手がフィーンならば、夜明けまでも踊れよう」
王はユナに手を差し伸べ、ユナは手を差し出した。王の手が彼女の手にふれる。そのとたん、ユナの身体は羽のように軽くなり、一瞬のうちに流星のような光に包まれて、王の腕の中で踊っていた。
いつのまにテラスに出たのか、頭上は降るような星空。楽師たちの演奏に合わせるように、吹きゆく風も、やさしい旋律を奏でている。
ユナの心はふるえた。
エルディラーヌでこれほどあたたかく迎えられながら||あるいは、だからこそいっそう、密かに抱いていたひとつの思いが、その心に影を落とす。
預言を
レクストゥールはいっていた。未来はつねに変わり、いつも動いているのだと。
あの朝、最後にグルバダと対峙したときの決断には、一片の後悔もない。あのとき光を解放しなければ、大いなるダイヤモンドとともに、それにまつわる記憶も奪われていた。ただ、そこにいたるまでのどこかの時点で、フィーンの至宝を守る道があったのではないか。
ユナの脳裏に、
フィーンの輝ける生命の守り手である、
だからこそ、大いなるダイヤモンドの奪還は、エルディラーヌの悲願であり、未来そのものだったのだ。しかしもはや、その願いが叶うことはなく、未来への希望は永遠に絶たれてしまった||。
「ユリディケ」
ユナは顔を上げる。
「確かに、別の道もあったかもしれぬ。されど、あの石がこの世にある限り、不死の騎士は地上をさまよい、あの男はふたたびよみがえってくるであろう」
ユナは、まわりで踊るフィーンたちを見た。彼らはあたかも星々の世界から舞い降りてきた精霊のようだ。その美しい存在が、いつの日かこの地上から姿を消すのだと思うと、ユナの胸はどうしようもなく痛んだ。
「悲しむことはない。われわれの誰もが覚悟していたことだ」王の声は静かだった。「そして、ダイヤモンドが戻ったあかつきには、わたし自身がその石を光の源へ還そうと思っていた」
ユナは王に目を戻した。
王の瞳は宇宙の
「されど、ふたたびあの石を手にして、その思いを貫くことができたかどうか」
長い沈黙が落ちる。ユナは、なんといっていいかわからなかった。
不意に、王の瞳がやわらかな水色に染まる。
「レクストゥールはいっていた。望みは常にあると」
王はほほえみ、ユナを抱いたまま優雅にまわる。漆黒のマントからきらきらと光が
「戦争は終わり、これから、あらたな時代が始まる。人とフィーンのあらたな友情も」王は言葉を切り、おもむろにいいそえる。「あのふたりは、その架け橋になるであろう」
「そうですね、陛下」ユナはほほえんだ。
王はユナを見つめ、眉を上げる。
「オーベンレンガーと呼んではくれぬか?」
「わかりました、オーベンレンガー」ユナはうなずく。「では、わたしのことはユナと」
「そうしよう、ユナ」
そして、夜が深まり、踊り手たちの熱気が増すなか、王はユナをテラスの片隅へと導いた。
「少し休むとよい」
王はユナを
王と王妃が踊りの輪に戻ってゆくと、ユナはルドウィンと並んで欄干にもたれ、きらめく流れと、川向うの人の世界をながめた。
対岸の森は静かで、その彼方、星あかりに浮かぶ白銀の峰は息を呑むほど美しい。その右手、
深い
「それで、きみの心は晴れた?」ルドウィンがいう。
「え?」
「なにか悩みを抱えていたんじゃないかな?」
ユナは瞬きする。
「気づいていたの?」
「そのことでいっぱいで、ほかのことを考える余裕がないみたいだったからね」
テラスでは大勢が踊っていたが、欄干の片隅にいるふたりに目を留める者はいない。すべてが終わり、ギルフォスの宮殿で目覚めたあと、ルドウィンが最初に部屋に入ってきたときをのぞいて、ふたりきりになるのは初めてだ。そのことに気がついて、ユナはちょっとドキドキしてくる。
「悩みごとは解決した?」
「ええ」
「よかった」ルドウィンはいい、遠い空に目をやった。「いまごろウォルダナでも、終戦と夏至の夜を祝っているな」
「そうね」
「平和会議が終わったら、ヨルセイスが送ってくれるそうだ。フィーンの帆船なら、陸路よりずっと早い。来月のなかばには、ぼくらもあの空の下にいるよ」
「ほんと?」
「ああ」ルドウィンは笑顔でうなずく。
不意に、切なさがこみあげた。
待ち望んだ帰郷。けれど、それは同時に、ルドウィンとの旅が終わりに近づいていることを意味する。自分でも驚くほど心が揺れ、ユナは動揺を隠すために、さりげなく視線をそらす。
「きみの家族には、本当にすまないと思っている。だが、すべてが終わるまで、どんな話も漏らしたくなかった」ルドウィンは言葉を切る。「ルシタナの再来が現れて剣の魔力を解放したことは、世界中に伝わっている。世間に対する表向きの話は、もっともらしく聞こえるよう、真実と嘘を交えよう」
「どんなふうに?」
「そうだな、たとえば、実際グルバダは、ルシタナの再来を探して世界中に追手を放っていて、各地で怪しい輩が出没しているという
クレナのダンスパーティもそうで、以来、密かに警戒にあたっていた王室の護衛がきみを救い、安全な場所にかくまった。きみは重傷を負っていたが、一命をとりとめ、療養をしているあいだに、本物の再来が現れて預言を成就した」
「なんだか、つまらない話ね」
「じゃあ、ほんとのことを公表するかな」
「それはだめ」ユナはあわててかぶりを振る。
大勢の者に支えられ、助けられて、なんとか使命を果たすことができたのだ。自分ひとりでは、なにひとつできなかった。けれど世間は、そんなふうには考えず、彼女を英雄に祭り上げるだろう。
「だったら、いまの話でいいね? もちろん、レアナには真実を伝えよう。伯父さん夫婦にはどうする?」
「そうね||伯父たちに、嘘はつきたくない」
「よかった。賛成だ。クレナに送っていったとき、ぼくから話そう」
「あなたから?」
「ああ。レアナにはきみと帰ると約束したし、きみが家族と故郷をどれほど大切にしているかは、わかっているつもりだ。きみが自由を愛する人間だということも。だが||」
そこで言葉を切ると、ルドウィンは並んでもたれていた欄干から身体を離し、彼女の方を向いた。熱を帯びた
「ユナ」彼はいった。「世界中探しても、きみのようなひとはいない」
ユナは、息をするのを忘れる。
「結婚してくれないか?」
一瞬、すべての音が消え、ユナの心臓の鼓動も止まった。それから、
「ルド||」
彼との未来を夢見なかったといえば嘘になる。けれども、彼は世継ぎの王子。ともに歩む道は、ユナには見えなかった。それゆえ、ずっと自分にいいきかせてきたのだ。彼が生きていただけで、充分ではないか、と。
ルドウィンは、ユナが続けるのを待った。ユナは、なんとか気持ちを落ち着かせようとしたが、鼓動はいっそう速くなる。
「噂では||噂では||国王は退位をお考えとか」声がふるえるのがわかった。「未来の王妃になる女性は、国王からも国民からも祝福されないと」
「きみがルシタナの再来だと明かせば、国民は熱狂的にきみを迎えるんだがな」
「ルド||」
「わかってる」彼はやさしくさえぎる。「父はどんな異議もとなえないよ。都を発つ前、父がきみのことをなんと呼んだか忘れたの?」
ユナは目をふせた。
ウォルダナの宝||。どうして忘れられようか。エレドゥ
「国王が祝福すれば、きっと国民も認めてくれる。心の準備をする時間は、いくらでもあるよ。王妃になるのは、ずっと先の話だからね」
「え?」
「父は、当分王位を
「||本当に?」
「ああ。ウォルダナに派遣されていたユリスの腹心レファンが、ついさっき戻ってきて、知らせてくれた。たぶん、新しい薬草との相乗効果もあるんじゃないかな。きみを無事旅立たせたウォルダナへの感謝を込めて、エルディラーヌからも薬草が届けられていたというから。父は明々後日、フィーンの船でやってくる。大切な会議を未熟な息子にまかせてはおけないとばかりにね」
鳶色の瞳にいたずらっぽい光がひらめく。
「それで、きみのこたえは?」
まだ夢を見ているようだった。ユナはただ
「二千年待ったんだ。もう充分だと思わないか?」