二日後、ルシナンの女王夫妻がフィーンの迎えの船で、また、テタイアとテダントンの国王夫妻が戦場にいたフィーンに導かれて、エルディラーヌに到着した。
 翌朝には、ウォロー山脈と星々をモチーフにしたウォルダナ国旗と、青い羅針らしん盤と白い花をモチーフにしたフィーンの旗をなびかせて、カルザス王の一行が、白銀の川をさかのぼってきた。
 歓迎の鐘の音が鳴り響くなか、カルザス王は、つえなしで渡り板の上を降りてきた。側近に片腕を支えられてはいたが、その姿は威厳いげんに満ち、力強い瞳は、ルドウィンとユナの姿をいち早くとらえて、いっそう明るくきらめいた。
 ふたりの思いを知ると、その瞳にやわらかな笑みが広がる。そこには、心からの祝福があった。
 
 その午後、フィーンの王と王妃は、人々を小高い丘へと案内した。
 丘の斜面には、かつて死の吹雪を逃れてきた人々が築いたという街が広がり、いただきには、いまも手入れが行き届いた果樹園があった。ふもとには白銀の川が流れ、木造建築と石造りの家が調和した街は、どこからでも対岸の人の世界を見晴らすことができる。
 腕のいい大工がいて、彼が中心となって街を築いたとのことだった。
「その人は、わたしたちの大切な友だちだったの」
 リーの手をとって歩きながら、王妃がいう。それから、当時を思い出すかのように、遠い目をして対岸を見つめた。
「あのころ、流れをへだてた人の世界は、吹雪でかすんで、なにひとつ見えなかった。緑の森も、青い空も、白銀の山々も||。それでも、誰もがここから、その白い世界を見つめていたわ」
「みんな、一日も早く帰りたいと思っていたんだね」リーが王妃を見上げた。
「ええ」王妃はやさしく見つめ返す。「そうよ」
「その吹雪、どのくらい続いたの?」
「そうね」王妃がこたえるまでに、少し間があった。「とても長いあいだ」
「じゃあ||帰れなかった人もいた?」
 王妃はふたたび遠い目をする。それから、そっといった。
「ええ。そうね」
 
 翌日から、平和会議が始まった。
 ギルフォスでなにが行われていたかを証言するために、ヒューディやラシルも出席したが、ユナとリーは休養に専念できるよう配慮された。リーは杖を使って歩けるようになっていたので、ふたりはいくつもある庭を散策し、心ゆくままのんびり過ごした。
 王宮のはずれにある庭は、とりわけふたりのお気に入りだった。澄んだ小川が芝生を囲んで流れるひっそりとした庭で、そのまわりを背の高い木々が縁取り、芝生の中央には真昼でも星々を映す水盤がある。
 そこで鳥たちの歌とせせらぎを聞きながら、リーは、故郷の蒼穹そうきゅう山麓さんろくや、ルシタナの伝説を聞かせてくれた祖母のことを、ユナは、ローレアの花咲くクレナの丘や伯父と伯母、姉妹のように育ったレアナのことを話した。
 夜には、そのひそやかな庭で、エレタナとヨルセイスが、二千年前なにがあったのかを聞かせてくれた。伝説では伝えられていない、秘められた物語を。
 ふたりはまじろぎもせずに聴き入った。ルドウィンとヒューディ、ラシルとジョージョー、デューとワイス少佐、それに、少佐の旧友も一緒だった。
 そしてある夜のこと、ヨルセイスはさらに過去へとさかのぼり、遠い故郷の話をしてくれた。フィーンのダイヤモンドがサラファーンの星と呼ばれていた美しい故郷のことを。遥かなる時、グルバダもその世界にいて、エヴェイン王妃や彼とも深いゆかりがあったことを。
 彼が語っているあいだ、誰もなにもいわなかった。
 木々に囲まれたあい色の空には星々が瞬き、リーの左手首では、その星たちとささやきを交わすかのように、三粒のダイヤモンドがきらめいている。リーのかたわらには黒猫のアイラが寄り添い、長い尾をゆっくりと振りながら、みなとともに静かに耳を傾けていた。
 
 五日間にわたる平和会議で、各国は戦争のない世界を築くことを誓った。
 その誓いをあらたにするため、毎年もちまわりで、この夏至の時期に平和会議を開催することとなった。また、各国のあいだで親善大使を派遣して、互いの国に滞在し、文化の交流をはかることも決められた。
「平和は尊く、同時にもろいものであり、それゆえ心して守らねばなりません」
 フィーンの王は、古い詩句の刻まれた石碑のある中庭で語った。
「これからも、権力にとりつかれたひとりの者が、大衆を扇動せんどうし、平和をおびやかすことがあるかもしれません。国と国、あるいは人とフィーンのあいだで摩擦まさつが起きたり、ささいな誤解が予期せぬ事態を招くこともあるでしょう。されど、この新たな交流を通して、われわれが互いに理解を深めてゆけば、問題が大きくなる前に、その火種を消すことができると信じています」
 それは、会議が終わった午後のことで、ユナとリーも、みなと一緒にその場に集った。王がたたずむ石碑せきひのまわりには、忘れな草やすみれなど、清楚せいそな青い花々がそよ吹く風に揺れている。さまざまな色調の青は、ユナに故郷のローレアの花を思わせた。
「ギルフォスの宮殿は、歴史と平和を学ぶ大学として生まれ変わることになるでしょう。今回の悲劇を永遠に忘れないよう、その大広間の壁には、戦争で亡くなったすべての者の名前が刻まれます。敵味方を問わず、兵士も市民も含めて、すべての者の名前が」
「フォゼの名前も刻まれるかな」
 ジョージョーがささやき、ヒューディが、心のこもった声でささやき返した。
「もちろんだよ、ジョージョー」
 
 その夜、別れの晩餐会の席で、フィーンの王は、エレタナとデューの婚約を発表した。ふたりは親善大使として、一年の半分をエルディラーヌで、残りの半分をルシナンで過ごすという。
 会場はあたたかな祝福に包まれ、花火が打ち上げられた。楽師たちが陽気な音楽を奏で始める。デューがエレタナを誘ってテラスに向かうと、夏至の夜と同じように、みな次々と踊りだした。
「ユナ」ヨルセイスがいう。「今宵は誰とでも踊れますよ」
「そうね」ユナはうなずき、ジョージョーを見た。「ジョージョー、踊らない?」
「え? 俺||?」彼はちょっと驚き、戸惑ったようにルドウィンとヒューディを振り返る。
「どうしたんだ、殊勲しゅくん賞に輝く英雄が?」ルドウィンがいった。
「断るのは、礼儀にかなってないんじゃないかな?」とヒューディ。
「そうよ、ジョージョー。しばらく会えなくなるんだから」
 ユナたちは明日帰国の途につくが、ジョージョーはここに残って、フィーンの料理を習得し、そのあと、デューとエレタナの専属料理人として、ルシナンとエルディラーヌの公邸で働く。
 ユナは手を差しだし、ジョージョーはおずおずとその手をとった。
「ユナ」踊りながら、彼はためらいがちに口を開く。「きみが、デューとエレタナに頼んでくれたんだよね?」
「あなたの料理、すごく美味しくて、セティ・ロルダの館でも評判よかったんだもの」ユナはにっこりした。「旅のあいだもなにかと工夫して、いろんな豆料理を作ってくれたし、それに、あなたが一緒だと、リーもうれしいんじゃないかと思って。あなたたち、なんだか気が合うみたいだもの。あなたのひいお祖母さんがテタイア人だからかもね」
「それよか、俺のもとの職業が気に入ったんじゃないかな。親父と馬泥棒をした話とか、フォゼと俺の首に、たんまり賞金がかかってるって話とか、興味津々で聞きまくるんだ」
 ユナは笑う。
「俺もひとりじゃなくて心強いよ。リーは年下なのに、どこか大人びたとこがあってさ、こっちが弟分みたいな気がしてくるくらいだ」
 リーも静養がてらエルディラーヌに残る。そして、この国の薬草や鉱石について学んだあと、世界中をめぐって||なにができるかまだわからないけれど、なにか平和を守るために貢献こうけんできたらといっている。
 ラシルはさして驚かなかった。弟は幼いころから人と違っていたから、心のどこかでは、いつか遠くへ行ってしまうだろうと思っていたと、あとでそっとユナに打ち明けた。
 一方、ラシルは蒼穹山麓に戻り、祖母のあとを継いで、薬草使いとして生きると決めていた。
 彼女は明日の朝、テタイアとテダントンの一行とともに、フィーンの船で白銀の川をさかのぼる。ワイス少佐の旧友、パーシー大尉も一緒だ。大尉は、トリユース将軍から直々に、彼女を蒼穹山麓の村に送り届け、彼の地の復興にたずさわるよう命じられたとのことで、リーも安心したようだった。
 ひょろりとした見かけによらず、パーシー大尉はルシナン陸軍きっての健脚で、ここ数年、諜報の世界に身をおいていた。将軍は、彼ならば、どんな状況にも冷静に対応できると太鼓判たいこばんを押している。
 その大尉が、ラシルと踊っているのが見えた。片手で彼女をくるくると回し、ラシルが声を立てて笑う。
 ユナはそんなふたりの様子に気を取られ、曲調がゆったりしたものに変わって、デューの声が聞こえるまで、彼がそばに来たことに気がつかなかった。
「いいかな?」
 笑顔のデューに、ジョージョーがもちろんとこたえ、こちらもいつのまにそばに来たのか、エレタナの姉がそのジョージョーをやさしくいざなう。
「きみのほうが、一日早く発つんだね」ユナに手をさしのべてデューがいった。
 来年の平和会議の主催国であるルシナンの一行は、明日いっぱいエルディラーヌに滞在する。
「寂しくなるよ、ユナ」デューの声はいまなお、翼を持ったようにただよい、ユナの心を包み込む。「でも、春にはまた会えるね」
「ええ。楽しみにしてるわ」
 デューとエレタナの結婚は来年の春。ふたりとも華やかな式は望んでいないし、ごく親しい者だけのささやかなものになるだろう。
「ワイスがぼくの介添人かいぞえにんを引き受けてくれた」デューはいい、ユナの肩越しにやさしいまなざしを送る。「彼女は、きみにたのむんじゃないかな」
 振り向くと、ワイス少佐とラシルの向こう、ルドウィンと踊るエレタナの姿が見えた。羽衣のようなドレスがなびいて、女神が舞い降りたかのようだ。
 ふたたび曲調が変わり、ユリス王子が声をかけてきた。
「夏至の夜も踊りたかったのだが、父上に止められてね」ユナを誘ったあと、そういって笑い、デューに片目をつむってみせる。「心配ない。まだ病み上がりだということは、しかと心得ている」
 初対面のとき、その美しい翡翠ひすい色の瞳でユナを見つめ、ただはらはらと涙を流していたユリス王子は、そのあとはうってかわって、彼女を見かけるたびにあれこれ話しかけ、姉や側近のレファンから、ユナを疲れさせないようにと、何度もくぎをさされていた。けれども、彼のおしゃべりはひたすら明るく、ユナは少しも疲れなかった。
「わたしならだいじょうぶ」
 ユナの言葉にデューはほほえみ、ほおにそっとキスをする。
「またあとで、ユナ」
「それはどうかな」とユリス王子。「ユナとのダンスを待ちかねているフィーンは、わたしのほかにも大勢いるからね。もちろん、レファンには遠慮えんりょするよういっておいた。あれは気のく男だが、いささかこうるさいのが玉にきずでね」
 ユナは笑う。
「レファンとも踊りたいわ。わたしには、こうるさくないと思うから」
 ユリスも笑い、ユナの手をとった。
 今宵こよいは新月。空には無数の星が宝石のようにきらめいている。明日の別れを前に、誰もが名残を惜しんでいた。
 
 翌朝、ラシルを乗せた船は、王宮前の波止場を離れ、白銀の川をさかのぼっていった。そのあとユナたちも、つかのまの日々を過ごしたエルディラーヌに別れを告げた。
 いま、ウォルダナ行きの船は、南アルディス海を目指して、白銀の川をくだっている。
 ユナは右舷うげん甲板かんぱんで、手すりに身をあずけ、エルディラーヌの緑の大地を眺めていた。王と王妃、デューとエレタナ、ワイス少佐にジョージョー、ユリスにリー……。見送りの者と次々かわしたほうようのぬくもりが、いまだ全身に残っており、心のかけらをエルディラーヌに置いてきたような気がした。ある意味では、そうなのだろう。
 彼女の左隣では、ヒューディとヨルセイスが、同じように手すりにもたれ、先ほどから静かに語らっている。
 ヒューディは、デューと一緒にルシナンに帰ることもできたのに、ウォルダナ国籍を取って、王立音楽院を受けるために家を出たのだから、手ぶらで帰るわけにはいかないというのだった。もちろん、ウォルダナに戻る本当の理由は、国籍なんかじゃない。今年の音楽院の試験はすでに終わっており、来年受けるのなら、急ぐ必要などまったくないのだから。
 フィーンの船は流れに乗って川面を進み、吹雪を逃れてきた人々が暮らしたという丘が見えてきた。
 ユナの耳に、別れ際のリーの声がよみがえる。
「いつかウォルダナを訪ねていくよ」澄んだまっすぐなまなざしでユナを見つめ、リーはいった。
「待ってる」ユナはこたえた。「ローレアの季節に来てね。ローレアの咲く季節に訪れた者は、必ず||
「必ず、ウォルダナに戻ってくるといわれているから」
「知ってるの?」
「うん。昔どっかで聞いたことがある」リーはにっこりして、足もとにすり寄ってきたアイラを抱き上げた。朝の光を受けて、その左手首で、ブレスレットのダイヤモンドがきらきらと輝いた……。
「ヒューディ!」
 ルドウィンの声に、ユナは振り返る。
「国籍のことは心配しなくていい」ルドウィンが甲板を横切ってやってきた。「国王と話していたんだが、これからは国を問わず、誰でも王立音楽院を受けられるようになるよ。国王も、閉鎖的な法律やしきたりは変えていかなければと、長らく考えていたそうだ。それから、きみには追試を受けてもらわないと」
 ヒューディは瞬きする。
「ウォルダナ王室の重要な任務を果たして、受験の機会を逃したんだ。追試験を受ける資格は充分にある。そう思わないか、ヨルセイス?」
「ええ、そうですね」
「戻ったら、すぐに試験だ」ルドウィンは、ヒューディの肩をぽんと叩く。「落ちるなよ」
 
 船は順調に白銀の川を下り、翌々日、南アルディス海に出た。
 抜けるような青空に、どこまでも果てしない真っ青な海。べにかもめが船と競うように飛び交うなか、ユナはさきにたたずみ、その壮大さにただただ圧倒されていた。
 何度か航海の経験があるというルドウィンも、国王を支えて静かに寄り添い、せられたように海を見つめている。
 その美しい青に、グルバダの真っ青な瞳が重なった。胸の奥に痛みが走る。
 そのとき、長い金髪を風になびかせ、ヨルセイスが涼やかな声でいった。
「じきに、スリン・ホラムの港が見えますよ」
 スリン・ホラム||
 デューとワイス少佐の生まれ故郷。天然の入り江を抱いた風光明媚ふうこうめいびな港街。来年の平和会議の開催地となったその街は、ヨルセイスがひそやかな庭で語った話では、二千年前の秘められた歴史の舞台でもある。
 その悲劇の過去を、希望に満ちたあらたな歴史でぬりかえたい。ユナは、心の底からそう願った。
 レクストゥールはいっていた。未来はつねに変わり、いつも動いているのだと。
 未来を作ってゆくのは、自分たちなのだ。ひとりひとりの思いが、あらたな歴史を作ってゆく。希望は、ひとりひとりの手の中にあるのだ。
 白い帆が大きく風をはらみ、船は一気に速度を上げて、大海原をすべるように駆けていった。