エピローグ

 古い遺跡のたたずむクレナの丘。レアナは、崩れかけた壁にもたれてひざを抱え、彼方にそびえるウォロー山脈を見つめていた。かたわらでは、薄茶色のむく毛の子犬がやすらかな寝息を立て、近くのにれこずえでは、星ツグミが澄んだ声で歌っている。
 ユナが旅立ったあと、幾度この丘を訪れ、こうして遠い山並みを眺めたことだろう。その向こう、はるか異国に思いをせ、ただひたすら、旅の無事を祈りながら。それだけが、ユナのためにできることだったから。
 テタイアの内戦の劇的な終結については、すでにウォルダナにも伝わっていた。先週には援軍の多くが帰国し、今月末には、ほぼすべての兵士が帰還できる見込みだという。
 ユナは使命を果たしたのだ。二千年の時をこえ、古の預言を成就じょうじゅさせて。
 灰色の軍隊は、ルシナン北部の辺境の地をまわり、この最果ての国に迫っていた。の七日前、国境警備兵と羊飼いが、国境の川にさしかかる大軍を目撃していた。空から虹色の光が降り注ぎ、彼らが漆黒しっこくの馬とともにくずおれて、砂のように散りゆく様も||。あの恐ろしい騎士たちは、二度と現れることはない。
 ルドウィン王子はテタイアの決戦に向かい、その後エルディラーヌで開かれた平和会議に出席したと伝えられている。そしてルシタナの再来は、どこへともなく姿を消したと。
 ユナは、彼とともにエルディラーヌに渡ったに違いない。
 水車小屋の前で別れたとき、ルドウィンは約束した。必ずユナを守ると。そして、きっと一緒に帰ってくると。あのとき彼女を見つめたとび色の瞳には、心からの誠意があった。
 そのルドウィンとの誓いを守り、レアナは、灰色の騎士のことも、ユナが突然失踪したわけも、すべて胸のうちにとどめてきた。
 幼いセイルは事件の記憶を失っており、水車小屋の襲撃は、ダンスパーティと同じく、無法者の仕業とされた。両親はずっと自分たちを責めている。恐ろしい事件があったばかりなのに、どうしてあの日、ユナをひとりで水車小屋に行かせてしまったのかと。
 ふたりのせいじゃない。そういいたかった。けれど、真実を打ち明ければ、いっそう心配をかけるだけだ。
 レアナはヒューディを思った。彼女のほかにただひとり、ユナの秘密を知るひとを。
 その後、彼からはなんの音もない。彼もテタイアに行ったのだ。ユナを助けるために。ヒューディなら、きっとそうする。
 レアナは、かたわらで眠るふさふさの子犬に目をやった。くずおれそうな日々、彼女を支えてくれたのは、ディーン先生の一家と、この小さな友だった。
 ディーン先生は、四年前、都の王立病院から村の診療所にやってきた。レアナたちとは家族ぐるみのつきあいで、ユナがいなくなったあとも、よけいなことは一切いわず、いつものようにお茶や食事によんでくれる。
 ひとり息子のバドは、王立大学の医学生。レアナとユナにとって、兄のような存在だ。
 そのバドが、都から連れてきたのがこの子犬だった。診療所にと、友人から譲り受けたそうだが、レアナを見るなり、そばを離れなくなった。まるできみの犬みたいだなとバドは笑い、そして子犬はレアナの家にやってきた。
 村人総出でユナの捜索をしてくれていた時期で、バドもその週末、先生夫妻とともに、オオユリの木の群生地を探してくれた。
 虹色のちょうを追って迷い込んだユナが、初めてルドウィン王子に出逢った場所。ほとんどが蕾だったとユナはいっていたが、その週末には色の花が咲き誇り、虹色の蝶が無数に舞っていた。
 あれから季節はうつろい、花の終わった群生地は銀色に透ける葉を茂らせ、子犬はみるみる成長し、レアナたちの心をなごませている。
 眠っていた子犬がふと目を開け、片耳をピンと立てて起き上がった。
「どうしたの、チェスター?」
 そう声をかけたとき、レアナの耳にもひづめの音が聞こえてきた。
 崩れた円柱が並ぶなか、はねるように歩くチェスターを追って遺跡の端までいくと、緑の木立を縫って、明るい栗毛が駆けあがってくるのが見えた。ディーン先生の愛馬だ。だが、乗り手は先生ではない。
 あちらこちら向いた赤毛が太陽にきらめく。
 バド||
 戦地から負傷兵が帰還して、医学生も病院に駆り出され、この夏は帰省できないと聞いていたのに。
「バド!」レアナは手をふる。
「やあ、歌姫」地面に降り立ち、栗毛を木陰につなぐと、バドは笑顔で近づいてきた。
 レアナをそんなふうに呼ぶのはバドだけだ。彼の誕生日に、先生の奏でるリュートの伴奏で一曲歌ってから、いつもそう呼ぶ。
「どうしてここに?」
「おばさんに、たぶんここだって聞いて」
「そういう意味じゃなくて||」いいかけたけれど、バドはもう目の前にいて、ふたりは少しのあいだ、黙って抱擁を交わした。
「やせたな」バドはいい、その足もとで、子犬が跳びはねながら、懸命にアピールしている。「よお! おまえはでかくなったな!」
「ほんとに」バドが子犬の頭をくしゃくしゃっとなでるのを、ほほえみながら見つめたあと、「いつ帰ってきたの?」
「ついさっき。重傷の帰還兵が想定よりずっと少なくて、未熟な研修生たちは、お役御免となったってわけさ。それもこれも、戦争が早く終わったおかげだ」
 ふたりは遺跡の中を歩き始め、そのあとをチェスターがうれしそうについてくる。
 レアナは、バドに聞かれるままに、教師としての最初の年が終わってほっとしていること、生徒たちが驚くほど成長したこと、この夏休みは時々郵便局で父を手伝っていることなどを話した。
「あなたのほうは?」
「順調だよ。このままいけば、再来年には、王立病院で子どもたちを診ることになりそうだ」彼はこたえ、なにげなく続ける。「レアナ。都に来ないか?」
「え?」
「友だちの親父さんが王立大学の古典の教授で、図書館の研究室で資料を整理する助手を探してるんだ」バドは歩みをゆるめてレアナを見る。「前に、都や大学のこと、あれこれと聞いてきたろ? 学校で教えるのは、大学の学費のためもあるんじゃないのか?」
 大学||。ユナがいなくなってから、胸の奥に封印していた夢。
 レアナがこたえずにいると、バドは、やっぱりなという顔をした。
「こんなチャンスを逃す手はないよ。村の学校は、かわりの教師を探せばいい」
「ありがとう。でも||
「レアナ」バドはさえぎる。「ユナのことなら、あいつはきっと帰ってくる。なぐさめなんかじゃない。ここで」と胸もとをおさえ、「はっきりと感じるんだ。だいたい、あのはねっかえりが簡単に消えるわけないもんな。けど、いつになるかはわからないだろ? きみの人生も考えないと」
 レアナは目をふせる。
「ありがとう。ほんとに。でも、いま両親を残しては||
 短い沈黙があった。
「そうか」
「ごめんなさい」
「いや、いいんだ。こっちこそ」彼はすまなそうにいう。「ところで||来月その友だちがやってくる。彼女、この遺跡を見たいっていうんだ」
「彼女?」レアナは思わずバドを見た。
 バドはうなずき、ほおを染める。
「きっと気が合うよ。大学病院の研修で会ったんだけど、一年上で、俺より赤い燃えるような髪で、誰よりも熱いのに、ここぞってときには冷静で、医師からも頼りにされてる。けど、全然偉ぶってないし、ふだんは案外ぬけてる。病棟から病棟へ渡るときには、必ず迷子になるしね。もっとも、シャスタにいわせれば、王立病院の構造が複雑すぎるってことだけど」
「シャスタ?」なぜだろう。どこか、心かれる響きだった。
「ああ。しゃた名だろ?」バドはいう。「弟のジョサは、この秋から音楽院生だよ。春にルシナンから来たっていう幼なじみも、音楽院を受けるはずだったんだよな?」
「ええ」今度はレアナがほおを染める番だった。
「また戻ってくるだろ? 都を案内するよ。シャスタとジョサと俺とで。そのときは、きみも一緒にどう? いい店があるんだ。料理もワインも美味い。彼女にいわせると、デザートも」
 バドはにっこりし、その屈託くったくのない笑みに、レアナも笑顔になる。
「そろそろ帰らないか? 送ってくよ」
「ありがとう。先に帰って。わたしはもう少しここにいる」
「そうか」彼はうなずき、遺跡を見渡した。「それにしても、伝説がほんとだったなんてな!」大きくかぶりを振ったあと、レアナに向き直り、「それじゃ、歌姫」チェスターの頭をなで、「またな、チェス」
 バドが馬のもとへ向かうのを見送ると、レアナは吐息をもらした。
 蹄の音が遠ざかるなか、チェスターがくうんと鼻を鳴らして、足もとにまとわりついてくる。レアナはかがみこみ、そのふさふさした首を抱いた。
 
 フィーンの帆船はんせんは、南アルディス海から東アルディス海へと抜け、ウォルダナ東海岸の河口から川をさかのぼり、サリー港に入った。ユナとヒューディは、そこでカルザス王に別れを告げて、ルドウィンとともに船を降りた。ヨルセイスも一緒だった。
 そして、彼らはいま、繊細な緑の葉を茂らせた白樺しらかばの森を、クレナへと向かっている。ユナはフィーンの王から贈られた馬に、そしてほかの三人は、それぞれの愛馬に乗って。
 何日も海の上で過ごしたあと、こうして大地をゆくのは心地よかった。
 古の人が竪琴たてごと月と呼んだという、一年の七番目の月。ロデス伯父が丹精込めて手を入れているささやかな庭では、遅咲きのつるが淡い色の花を咲かせ、サンザシは小さな青い実をつけ、杏やすももはすっかり熟してたわわに実っているだろう。
 白樺の森を抜けると、緑の丘陵きゅうりょう地帯が広がった。旅立ったときは一面水色に染まっていたローレアの草原は、盛夏を迎え、長い草が風に波のように揺れている。
 二千年前にも、この最果ての地に来たことがあるというヨルセイスは、海岸線や川の流れは変わったが、美しい丘が連なる光景は、ほとんど当時のままだといった。
 そのなだらかな丘をいくつかこえると、行く手、古代の遺跡がたたずむ小高い丘が見えてきた。
 
 チェスターを連れて家路をたどりながら、レアナは深い物思いに沈んでいた。草原を吹き渡る風の音も、歌うようなせせらぎの音も、ほとんど耳に入らなかった。
 ユナはきっと帰ってくる。預言が成就されたと聞いたときから、そのことは少しも疑っていない。
 けれど、彼女は伝説の娘の生まれ変わりだ。遥か西の国へと渡り、自分には想像もできない過酷な試練を経て、フィーンの世界も訪れている。いつしかレアナの見知らぬ遠い存在になっているのではないだろうか。そして、苦難の旅を彼女とともにしたルドウィン王子やヒューディも……。
 不意に、チェスターが足を止めた。レアナははっとする。
 口笛||
 いや、空耳だ。そう思ったとき、軽やかな蹄の音が聞こえ、忘れがたい声が響いた。
「レアナ!」
 
 レアナが振り向くやいなや、ヒューディはアンバーを走らせ、飛ぶように丘を駆け下りていった。緑のスカーフが、鮮やかに風になびく。
「レアナ!」声を上げて続こうとしたユナを、ルドウィンがとめた。
「少しだけ、ふたりきりにしてやろうよ」
「そうね」ユナは苦笑した。わたしったら、なんて気が利かないんだろう。
 レアナが走り出し、ヒューディが少し手前でアンバーから飛び降りる。むくむくした子犬が、レアナより先にヒューディに駆け寄ってうれしそうに飛びついたあと、またすぐに走り出す。
「チェスター!」
 レアナは呼んだが、次の瞬間、ヒューディが彼女をその胸に抱きとめた。
 チェスターと呼ばれた子犬は、ものすごい勢いで丘を駆け上がってくると、愛馬から降り立ったルドウィンめがけて突進し、押し倒さんばかりに飛びついた。
「やあ、チェスター」ルドウィンは笑い、ふさふさの頭や背をなでる。
 子犬は盛んにしっぽを振ってこたえると、続いて降りたユナとヨルセイスのもとにやってきて、ひと通りあいさつをしたあと、すぐにルドウィンのもとに戻り、ふたたび熱烈な歓迎ぶりを見せた。
「まるであなたの犬みたい」ユナは笑う。
 丘のふもとでは、恋人たちのかたわらで、アンバーがのんびりと草をはんでいる。
 ユナは、故郷の大地をじかに感じたくて、素足になった。やわらかな草が、ひんやりとその足を包む。見上げると、空には雲ひとつなく、星が見えそうなほど澄んでいる。
 風が丘の上を駆け抜けた。ユナは目を閉じ、そのさわやかな息吹を受け止める。
 瞳を閉じたまま、すべてを感じることができた。どこまでも続く草原。抜けるような青い空。そして、その果てに瞬く無数の星たち||。ユナは、世界とひとつになっていた。