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 ユナは、夜の工房にいた。
 闇のなか、六角すいの大きなダイヤモンドが、呼吸するかのように青い光を放っている。
 その清らかな波動に包まれながら、ふと、なにか大切なことを忘れている気がした。それに、なぜ、こんなところにいるのだろう……。
 突然、波動が乱れ、黒いローブをまとった男が現れる。薄い銀色の石をかかげ、あいている手をダイヤモンドにかざす。暗闇に、低い声が響いた。
 
 われは漆黒しっこくの闇をつかさどり、影と光を分かつ者。
 はるかな国から降りしサラファーンの星よ||
 
 待って! ユナは飛び出す。だが、伸ばしたその手は、なぜか男の身体をすりぬけた。
 銀色の石が振りおろされ、ダイヤモンドから、生きもののような悲鳴とまばゆい閃光が放たれる。
 すべての音が止み、すべての動きが止まった。
 ダイヤモンドの切り口から、涙のようなしずくがきらきらとこぼれ落ちる……。
 エレタナの声がよみがえった。
 ||大いなるダイヤモンドの欠片で作られたブレスレットよ||この三粒のダイヤモンドは、ダイロスから守られてきたの……||
 
 気がつくと、ユナは岩壁に囲まれた暗い部屋にいた。
 蝋燭ろうそくの炎のもと、繊細せんさいな銀の鎖に連なった三粒のダイヤモンドが、床の上で青くまたたいている。白髪の老人が、それを拾い上げた。
「サラファーンの星の雫だ」老人は目の前の若者にいう。「最果ての国に届けてほしい」
 呆然ぼうぜんと老人を見つめる濃いとび色の瞳には、見覚えがあった。ごく最近、どこかで会わなかっただろうか……。
 不意に何者かの気配を感じ、ユナは思考を止める。誰かが、じっと息をひそめている。
 グルバダ||
 戦慄せんりつが背筋を駆け抜けた。ここは、わたしの心の中だ。グルバダはどこかに身を隠し、わたしの中に眠る記憶を探っている||
 これ以上、知られてはならない。一刻も早く逃れなければ。
 ふっと笑う声が聞こえた。それから、はっきりと声が響く。
 
おのれの心から逃れられると思うのか。ならば、試すがよい!〉
 
 蝋燭の炎が消え、あたりが闇に包まれた。
 ユナは走り出す。自分の心の中なら、岩の壁も突き抜けることができるはず||
 濃い液体の中を通るような感覚が全身を包み、次の瞬間、ユナは迷路のような洞窟にいた。
 止まらずに走り続ける。背後から、暗い影が追ってくる。ところどころ松明がかかげられ、壁に揺れるかげが映し出された。
 道が大きくカーブする。そして、目の前に、宝石をちりばめたような星空が広がった。
 すんでのところで足を止める。道はぷっつり途切れていた。そこは、断崖にぽっかりあいた洞穴の出口。下は、底なしの闇||
 身をひるがえして戻ろうとしたとたん、真っ赤な目をらんらんと輝かせ、巨大な魔犬が飛びかかってきた。よけるまもなく、太い前足にドンと突き飛ばされる。
 衝撃とともに、ユナは底しれぬ暗黒へとまっさかさまに落ちていった。
 星の光が遥か上へと遠ざかってゆく。冷たい風がほおを切り、さまざまな光景が脳裏をよぎる。
 風が吹きすさぶエレドゥ峡谷||剣の間に横たわる黄金の箱||鍵穴にふれてきらめく三粒のダイヤモンド||稲光に浮かび上がる灰色の追手||裁きの森のささやかな家||レクストゥールの声が聞こえてくる。
 ||ユリディケは、フィーンの古い言葉で、輝きに満ちるもの、という意味です。その光がいつも……||
 声は遠ざかるように消えてゆき、りんのつぼみが降る草地が見えた。そして、雪の降る夜明けの湖と、輝く帆を張った金色の船が。
 突然、真っ白な閃光があたりを十字に切り裂いた。一瞬、なにも見えなくなり、深い悲しみが胸を貫く||
 それから、紫色の海が見えた。そして色の鳥が飛び交う森が。沖の方から不思議な歌が響き、崖の上では銀色狼が歌っている。ここではないどこか。澄んだ泉と水晶の山。大気は石が放つ光できらめいている。
 ||遠いフィーンの故郷では、石は眠り、夢を見、目覚めては歌った||
 誰かの声が聞こえる。そして、大きなダイヤモンドと、南アルディス海を思わす真っ青な石が見えた。
 と、かすかに空気が揺らいだ。ユナははっとする。グルバダの気配||。彼はどこかで、このすべてを見つめている||
 早く目を覚まして、ここから逃げなくては。けれど、どうやって||
 ユナはなすすべもなく、下へ下へと落ちてゆく。
 雪の断崖が見えてきた。金色の髪の娘が、その髪を風になびかせ、決意を秘めた紫の瞳で、雪にけむる遠い世界を見つめている。
 その光景が、新緑に萌える木立にとってかわる。オオユリの木の群生地||
 色のつぼみがゆっくりと開き、黒髪の若者が歩いてくる。その左手首から、青い光がきらきらとこぼれ落ちた……。
 
 リーは、ユナをとらえているきりのような闇を目指し、宮殿前広場をひた走っていた。
 彼の背後、正面玄関へと続く広い階段の片側では、ヨルセイスが灰色たちと壮絶な戦いを繰り広げており、反対側では、駆けつけた灰色たちが馬を乗り捨てて、次々と大広間になだれこんでいる。
 全身全霊で走り続けるリーの耳に、ひづめの音が響いてきた。
 ちらっと左手を見る。一騎の灰色が広場を斜めに突っ切り、こちらに向かってくるのが見えた。そのあとを、さらに数騎が追ってくる。
 霧のような闇まであと少し。リーの左手首では、三粒のダイヤモンドがきらめき、一心に光の剣に呼びかけている。
 しかし、その呼びかけは光の剣に届いていない。目の前の影の剣にかれるあまり、なにも聞こえていないのだ。二千年前、ともに生み出された二本の剣は、長らく封印されたことで、いっそう絆を深めている。
 フィーンの預言者は、誰よりもそのことを知っていた。
 ||今度こそ光の剣を手にして、影の力を止めるでしょう||
 濃い霧のような闇は、いまや嵐のように激しくうずを巻き、ユナとグルバダの姿は見えない。魔力はいよいよ強くなり、近づくにつれ、突破するのは不可能に思えてきた。けれど、ここであきらめるわけにはいかない。
 先頭の灰色が迫ってくる。蹄と拍車の音が耳を圧倒し、リーめがけて漆黒の馬が大きく跳躍ちょうやくする。
 その瞬間、左手首でダイヤモンドがまばゆい光を放った。リーはその光を高くかざし、闇の渦に飛び込んだ。
 空気の密度がぎゅっと濃くなり、時間の流れが変わる。片足で地面をったまま、リーの身体は、ゆっくりと宙を泳ぐ。漆黒の馬が闇の渦に弾き返され、もんどり打って倒れるのが目の端に入った。
 前方に、ユナとグルバダの姿が浮かび上がり、周りの光景がけむるように沈む。
「ユナ!」リーは声を限りに叫んだ。「剣を放すな!」