||ユナ!||
 突然、心に声が響いた。
 ||剣を放すな!||
 落下が止まり、ユナの意識は一瞬にして、宮殿前広場に戻る。
 霧のような闇が激しく渦巻くなか、きらめくブレスレットをかかげてリーが飛び込んでくるのが見えた。
 グルバダが振り向きざまに剣を向け、濃い空気を切り裂いて、影の力が放たれる。
「リー!」ユナは悲鳴を上げた。
 小さな身体が衝撃で飛ばされ、激しい渦に巻き込まれる。
 その姿が消えたかと思うと、あお向けにどさっと落ちてきて、かかげた左手を投げ出したまま、動かなくなった。グルバダが、その手首で輝くダイヤモンドに目を留める。
 その視線が、そのままユナに向けられた。真っ青な瞳には、氷の炎が燃えている。
「そういうことだったか……」
 ユナは息を呑む。
 そのときだった。ブレスレットから歌声が聞こえてきた。ユナの手の中で光の剣がふるえ、心にせいれつな光の風が流れ込む。
 それは、大いなるダイヤモンドの声。魂の叫び声だった。
 フィーンの聖なる石は、影の剣に強く惹かれながらも、自由になりたいと願っている。くびきから解き放たれ、自らの歌を歌いたい||いにしえの光の歌を、限りない喜びの歌を歌いたいと切望している||
 心が、いつになく澄み渡った。
 グルバダが影の剣を向けたのと、ユナが光の剣を持ち上げたのは同時だった。暗い銀の刀身から発せられた冷気を、ダイヤモンドの刀身が弾き返す。
 真っ青な瞳が射るようにユナを見た。ユナはまっすぐ見つめ返す。
 もう、二度とまどわされない。
 ユナは、光の剣を両手でしっかりと握りしめる。痛みはほとんど感じなかった。三粒のダイヤモンドが、リーの左手首でさざめくように歌いかける。
 ||遠いフィーンの故郷では、石は眠り、夢を見、目覚めては歌った……||
 ユナの心に、おうぎ形の野外劇場が浮かび上がる。石の舞台の中央で、ひとりの少女が歌っている。レアナのように、澄んだやさしい歌声で。
 
 誰も知らない 遥かなる時
 父は暗黒の支配者 母はきらめく銀河だった……
 
 思い出があふれ出す。子どものころ父と見上げた満天の星||レアナとヒューディと三人で走るローレアの丘||たそがれに染まるクレナの遺跡||虹色のちょうとオオユリの木||セティ・ロルダの館||霧に包まれた夜明け前の青い森||
 記憶は、奪われるものではない。かけがえのない思い出はことさらに。それは、わたしの光そのものなのだから。
 きらめく光がダイヤモンドの刀身に流れ、ブレスレットと少女の歌声とともに、大いなるダイヤモンドが歌い始める。星空の彼方から聞こえてくるような、神秘的な三重唱||
 ダイヤモンドが、まばゆいばかりの青い光に包まれて燦然さんぜんと輝いた。
 渦巻く闇が消え、切っ先から天に向けて強烈な光が放たれる。稲妻に貫かれるような衝撃が、身体中を駆けめぐった。ユナは決して剣を放すまいと、しっかりと握り続ける。
 グルバダもまた、影の剣を両手で握りしめていた。||いや、影の剣がその腕をとらえて放さないかのようだった。
 暗い銀の切っ先から、あたりの輝きを切り裂くかのように、漆黒の筋が天に向かって一直線に駆け抜ける。
 天地を揺るがすような烈風が吹き荒れ、グルバダの絶叫がこだまする。そして、光と影は天空でひとつになった。
 時が止まった。
 すべてが凍てつき、静寂せいじゃくがあたりを覆う。
 次の瞬間、すさまじい閃光が炸裂し、世界が真っ白になった||
 
 ユナは、不思議な静けさのなかで目を開けた。
 青く澄み渡った空から、無数の光が降りそそいでいる。銀色がかった虹色にきらめく光の雫だ。
 ユナは、地割れでできた断崖だんがいの縁に横たわっていた。肩越しに、底なしの暗黒がぽっかりと口を開けているのが見える。
 ユナの手の中には、銀のつかだけが残されていた。ダイヤモンドの刀身は、あとかたもなく消えていた。力の抜けた両手から、銀の柄がすべり落ちる。
 グルバダはなかば瞳を見開き、彼女と寄り添うように倒れていた。影の剣も、その手に柄だけを残して消えていた。自らが操ろうとした力で貫かれたのか。純白の衣装は焦げたように裂け、おぞましい傷がのぞいている。ユナは、正視できずに目をそむけた。
 リーは、先ほどのまま、かかげた左手をこちらに向けて横たわっていた。虹色の光の雫は、その小さな身体の上にも降りそそぎ、三粒のダイヤモンドがさざめくようにきらめいている。
 全身の痛みをこらえて立ち上がり、彼のもとに行こうとして凍りついた。
 リーの向こう、漆黒の馬に乗った数騎の灰色が空を見上げている。長身の一人は、馬から降り、じっと魅入るように見上げていた。くだんの灰色か||
 光の雫は、彼らの上にもきらきらと降りそそいでいる。
 ユナはまゆを寄せた。地上に、騎士たちの影がさしている。ごくうっすらとではあったが、そこに影が映っている。
 長身の男のフードが、はらりと肩に落ちた。青白い死者のような顔に、ゆっくりと赤みがさし、地上に落ちる男の影が濃くなってゆく。騎乗の灰色たちの影も、いまや地上にくっきりと落ちている。
 ユナは茫然ぼうぜんとして、宮殿正面に目をやった。裏手から駆けつけた大勢の灰色が、その場にたたずんで空を見上げている。虹色の光は彼らの上にも降りそそぎ、地上には、すでに影が戻っている。
 あたり一帯が、光と静けさに包まれるなか、宮殿の大広間からも、いっさいの喧騒けんそうが聞こえてこない。
 気がつくと、長身の灰色が、ユナを見つめていた。日に焼けた健康そのものの肌。明るい茶色の瞳。
 ||名前は?||
 ||家族はいたの?||
 ||人間に戻りたいって思ったことない?||
 その茶色の瞳に、一瞬、やわらかな笑みが浮かぶ。それから、その瞳の色がせ、落ちくぼんだかと思うと、日に焼けた顔がみるみる老いてミイラと化した。それは砂のようにくずれ、肩にかかったフードが、マントと軍服とともにはらりと落ちる。ちょうが倒れ、はくしゃが音を立てた。
 虹色の光が雫となって、雨のように降りそそぐなか、騎乗の灰色たちも、肩から崩れるように倒れ、漆黒の馬たちもまた、ゆっくりとくずおれてゆく。
 後ろの方から、ガチャガチャと金属音が響いてきた。振り向くと、地割れの向こうにたたずむ漆黒の馬たちが、次々とくずおれ、馬具が地面に落ちてゆくのが見えた。馬たちは霧のような砂と化し、残されたくらあぶみの上を、風に舞って消えてゆく。
 光の雫は、遠い丘の上にもきらきらと降りそそぎ、世界中が虹色の光に包まれているかのようだ。
 ユナは吐息をもらす。
 と、背後で影が動いた。振り返って息を呑む。
 南アルディス海のような真っ青な瞳が、彼女をまっすぐに見つめていた。
「そなた||いったいなにをした?」
 影の剣の柄を握りしめたまま、グルバダはもう一方の手を伸ばしてくる。そして、まさにその指先がユナの喉にふれんとしたとき、突如、足もとの地面が崩れた。
 彼の手はむなしく宙をつかみ、ユナの手は、かろうじて崖の端をとらえる。
 そしてグルバダは、真っ青な瞳でユナを見つめたまま、底知れぬ暗黒へと呑みこまれていった……。
 
 はっと我に返ると、ユナは左手だけで崖の縁にぶらさがっていた。
 グルバダと同じ運命をたどるのは時間の問題だ。痛む右腕で地面をとらえようと試みるが、あと少しというところで届かない。
 リーは生きているのだろうか。何度か呼びかけてみる。
 こたえはなかった。濃い鳶色の瞳をした薬草使いの少年。二千年前、彼女にブレスレットを届けてくれた若者……。
 昨日部屋に入ってきたときの、親しげな笑顔がよみがえる。
 その顔が、同じ色の瞳をしたルドウィンの面影にとってかわり、レアナのやさしい笑顔が、その面影に重なった。
 視界が暗くなり、まわりから音が消えてゆく。左手の力が次第に尽きてゆくのがわかった。指の下の岩が、少しずつ崩れ始める。
 そのとき、力強い手が手首をつかんだ。
「ユナ!」
 ルドウィン||
 もう一方の手がユナの二の腕をとらえる。地面がまたばらばらと崩れ、別の声がした。
「ユナ! そっちの手を!」
 波打つ金髪。紫の瞳。ローレアの花の香り||
 ユナは、最後の力を振りしぼって右手を伸ばす。エレタナがその手をつかみ、ルドウィンとふたりで崖の上に引き上げた。
「急いで」エレタナがいい、ルドウィンがユナをさっと抱き上げる。
 三人が崖の縁を離れた直後、大きな音とともに地面が揺れた。ルドウィンが肩越しに振り返り、ヒューッと口笛を吹く。
間一髪かんいっぱつでしたね」涼やかな声がして、長身のフィーンがリーを抱えて立ち上がった。
 ヨルセイス||
 リーはだいじょうぶだろうか。ヒューディやデューは……?
 聞きたかったけれど、まぶたが急に重くなり、ユナはもう、目を開けていることも声を上げることもできなかった。
 ルドウィンがなにかささやき、歩き始める。彼の心臓の鼓動が、全身に伝わってくる。その確かな音を聞きながら、ユナは夢のない深い眠りに落ちていった。