||その剣を手にしたところで、そなたにはなにもできぬ||
ユナの耳に、グルバダの声がこだまする。
||剣を差しだすがよい||そうすれば、そなたの愛する者には、特別な慈悲を与えよう||
剣を差しだせば……。次第に意識が
ユナは、はっと我に返る。
この剣を差しだせば、グルバダは彼女を
彼女の愛する者たちは、そんな世界で生きたいと思うだろうか?
いや||レアナはそんなことは望まない。そしていま、ルドウィンやデューが戦っているのは、この世界を守るためだ。
「断るわ」ユナは顔を上げる。「この剣も、わたしの記憶も、決して渡さない」
グルバダは静かにユナを見た。
「よかろう」
影の剣がさっと払われ、広場の向こうに広がる森で、木々が一斉になぎ倒される。続けざまに、低い角度で剣がきらめいた。地の底からゴーッという音が響き、突き上げるような揺れが来る。
バリバリバリッというすさまじい音||。振り返ると、巨大な地割れが、漆黒の馬の群れがたたずむ前を駆け抜けるのが見えた。パニックに陥った馬たちが、いななきながら走り出し、次々と底しれぬ暗黒に飲み込まれてゆく。
なんてことを……。
ユナは
グルバダは意に介するふうもなく、彼女を見下ろし、おもむろに残りの階段を降りてきた。ユナは、光の剣をしっかりと握り直す。影の剣とのつながりを強く感じる一方で、全身の細胞が、手放してはいけないと叫んでいる。
こうして剣を手にしたのは、奪い返されるためではない。今度こそ、預言を
ルシタナが殺されたあと、レクストゥールはなんといっていた? 彼女が告げたあらたな預言は?
一瞬、なにも思い出せなかった。それから、ユナの心に澄んだ声が流れてくる。
||二千年ののち、ダイロスがこの世に
その声をうち消すように、
とっさに身体が反応する。気がつくと、胸もとめがけて放たれたその一撃を、ダイヤモンドの刀身で受け止めていた。
衝撃が全身に伝わり、その反動で勢いよく飛ばされる。それでも、影の力を弾き返したのがわかった。剣を握りしめたまま倒れたユナに、大理石の破片が降り注ぐ。弾き返された影の力が、円柱か階段の一部を砕いたに違いない。
高らかな笑い声が聞こえた。
「さすがルシタナの再来だ。どこまでもつか、とくと見せてもらおう」
身を起こした瞬間、影の剣が
意識が遠のくなか、耳に靴音が響いてくる。ユナは、死にものぐるいで立ち上がった。
リーは速度を上げた。心臓が破れそうなほど激しく打つ。
勾配が急になったせいではない。ユナがじわじわと追い詰められてゆくのが伝わってくるからだ。グルバダが、ユナの心をもてあそび、それを楽しんでいることも。
そのとき、グルバダのその暗い情念の中に、リーはふと、かすかな恐れの匂いをかぎとった。ほとんど同時に、洞窟を揺るがして、衝撃波が押し寄せる。
木々の悲鳴がこだました。
すぐに次の衝撃波が来て、ゴーッと低い地鳴りが響く。突き上げるような揺れ。稲妻が駆け抜けたかのような
「こっちだよ!」ヨルセイスに声をかけ、狭い階段を駆け上がって通路へ出る。
通路は衛兵の通り道だが、彼らの気配はない。全員大広間に駆けつけているのだろう。壁に松明が燃える狭い道の果て、白い光が見えた。南の通用口だ。
ふたたび衝撃波が来る。と、ユナが光の剣で瞬時に弾き返したのが、リーの心にまっすぐ伝わってきた。
すぐにもう一度。ふたたび弾き返したが、さらに、たたみかけてくる。
ああ、どうか||。祈るように走るリーの耳に、夜ごと伝説を聞かせてくれた祖母の声が響く。
||二千年ののち、ダイロスがこの世に甦ってくるときには、ルシタナも必ず甦り、今度こそ光の剣を手にして、影の力を止めるでしょう||
リーは、目を見開く。
||今度こそ光の剣を手にして||
不意に、左手首のダイヤモンドが強い警告を発し、リーの思考をさえぎった。
「下がって!」ヨルセイスが前に飛び出し、走りながら弓を構える。
光が差し込む通用口に、フードを
ヨルセイスは、風のように走りながら、続く二人を倒す。リーが護身用にと渡された短剣を抜くあいだ、さらに二人を仕留めると、彼らがくずおれる前にその横を駆け抜け、白い光の中に消えた。
遺骸から集めた矢は、確か七本。あと二本で尽きる。リーは倒れた灰色を飛び越え、ヨルセイスを追う。弦の音が響く。立て続けに二度。
リーは、通用口から飛び出した。
正面玄関から宮殿前広場へは、ゆったりとした階段がのび、通用口はその両脇、優美な円柱の裏にある。その円柱の脇で、灰色が折り重なるように倒れ、その先、階段の前で、剣を手にしたヨルセイスが、何人もの灰色を相手にしていた。目にも留まらぬ速さで一人を倒し、さらに一人を仕留める。灰色たちはヨルセイスを倒そうと
咆哮が耳をつんざき、宮殿前広場に走る地割れの前に渦巻く闇から、衝撃波が押し寄せた。
ユナ||。
リーは、その闇目指して走り出した。
それでも、切っ先を地面に下ろしたまま、左手で柄を握っていると、息づくように光を放つダイヤモンドの刀身から、清らかな波動が心臓へと流れてくるのがわかった。そして、それだけが、自分の命をこの世につなぎとめているのだということも。
光の剣は、生き別れた双子のように影の剣を求めながら、どういうわけか同時に、その破壊的な力からユナを守っているのだ。
その影の剣を手に、グルバダは一歩一歩近づいてくる。ユナの後ろでは、無数の馬を飲み込んだ暗黒が、ぽっかりと口を開けている。
「そなたとは、新たな世界を分かちあえると思っていた」
ユナは、肩で息をしながらグルバダを見る。青い瞳はこれまでになく暗い。
「永遠に手を
銀の刀身がきらめき、切っ先が胸もとに突きつけられた。ぞっとするような冷気がユナの身体に入り込み、心臓を
ユナは悲鳴を上げた。だが、喉からはどんな
「
聞いちゃだめ! ユナは必死に自分にいいきかせる。グルバダの狙いはダイヤモンドにまつわる記憶。抵抗する気力を奪い、心の奥に入り込もうとしているのだ。
氷のような手が、いっそう激しく締めつけてくる。涙があふれ、ほおを伝った。ユナは救いを求めるように、しびれの残る左手で、光の剣を握りしめる。
「抗うな。すべてを手放し、ただ静かに身をゆだねよ」
ユナはルドウィンを思った。ヒューディやデュー、ヨルセイスたちのことを。彼らが命を
けれども、苦痛はあまりに耐えがたく、ユナはついにグルバダの声に屈して、その身をゆだねた。
「そう。それでよい……」
氷のような手が力をゆるめ、激痛が嘘のように引いてゆく。
「ユリディケ」
包み込むような声に、ユナはゆっくりと顔を上げた。
真っ青な瞳が、ユナの瞳の奥を見つめる。南アルディス海のように吸い込まれそうな青||。
空が消え、大地が消えた。
第40章(2 / 2)に栞をはさみました。