短剣の切っ先が、すっと喉に向けられた。ユナは目を閉じる。殺されるんだ||
 「そのつもりなら、とうにそうしている」呆れたような笑い声が聞こえた。「昨日運ばれてきたとき、そなたは赤子のように無防備であったからな」
 ユナは目を開ける。グルバダは、彼女の右側にたたずんでいた。短剣はテーブルの上、すぐ目の前に置かれている。
 美しい短剣だった。ローブの上から見たときにはわからなかったけれど、銀のつかには、葉とつるをかたどった彫刻がほどこされ、淡い虹色の石がめ込まれている。
「さあ、ユリディケ。手にとるがよい。またとない機会だ。いまここで、この心臓を貫けば、いとも容易にわたしをあの世に送ることができる」
 そんなことをできるはずもないのは、百も承知でいっているのだ。それはユナもわかっている。けれど、彼女はなぜか、無性にその短剣に惹かれ、知らないうちに手を伸ばしていた。
「遠慮はいらぬ。そなたの短剣だ」
 ユナは顔を上げる。わたしの?
「さよう」彼女の心を読んで、グルバダはうなずく。「そなたがルシタナであったときの」
 ユナはふたたび、短剣に目を落とした。理屈ではなく、本当のことだとわかった。だから、心惹かれたのだ。
 ユナは柄を持ち上げてみた。大きな淡い虹色の石が、月の光を帯びて、神秘的に輝く。
 その瞬間、雷に打たれたように、遠い記憶がよみがえった。
 暖炉が赤々と燃える、質素で心地よさそうな部屋。背の高い黒髪の男が、彼女に短剣を差しだしている。髪の色も、瞳の色も違うけれど、ユナにはわかった。
 デュー……。ランドリア王子。
 彼は、少しはにかんだようにいう。遅くなったけど、誕生日の贈り物だと。
 それから、場面が変わった。冬枯れした森の空き地。陽の光が降りそそぎ、落ち葉が絨毯じゅうたんのようにつもるなか、彼女はその短剣を手に、ランドリアと手合わせをしている。枯れ葉が舞い、汗のしずくがきらめく。
 甘い痛みに、胸がしめつけられた。
「なるほど」
 グルバダがささやくのが聞こえ、ユナは、心に入り込まれていたことに気がついた。
「ランドリアから贈られたのだな」
 ほとんどやさしいともいえる声。ごく親しい伯父が、めいに言葉をかけるような……。
 見上げると、その表情もやわらかで、月光を帯びた青い瞳に吸い込まれそうになる。
「その短剣も、この遺跡で見つかった。すぐに思い出したよ。二千年前、そなたを殺した証として、わたしの従者が、このわたしに届けたときのことを」
 青い瞳に、楽しげな光がおどる。
「これを見て、そなたの父は、頭に血をのぼらせた。そして、おろかにもみずから、勝ち目のない戦いを望んだのだ」
「彼は愚かなんかじゃないわ」ユナは、さっと相手をにらみつけた。ランドリア王子はダイロスとの一騎打ちに臨み、どちらもそれで命を落としたはずだ。「勝負は互角だった」
「伝説と事実とは違う。ランドリアは最初から劣勢だった。ほとんど落としたようなものだ。もっとも、あの腕でわたしに勝負を挑むとは、見上げた根性ではあったがな」
 怒りがふつふつと湧き上がる。自分のことなら、なんとでもいえばいい。けれど、彼のことをじょくする態度には、まんならなかった。
「心証を悪くしたか」
 グルバダは苦笑する。
「許せ。本当のことだ。ランドリアは見事な短剣の使い手であった。長剣でもなかなかの腕前だったが、少年のころから、わたしとはまったく勝負にならなかったよ」
 少年の頃から? ユナは戸惑った。
「思い出さぬか」
 じっとユナを見つめたあと、グルバダはふと目をそらしてつぶやく。
「フィーンの王女も、真実を告げていなかったとみえるな」
 ユナはさっと身構えた。グルバダは、彼女の心を揺さぶろうとしているのだ。その手には乗るものか。
「そうかたくなになるな」
 彼女の反応を楽しむかのように、グルバダはまた笑みを浮かべた。
「ランドリアとわたしは、血のつながった従兄弟同士。実に親密な間柄だった。彼の剣の腕を鍛えたのは、ほかならぬこのわたしだ」
「嘘よ!」ユナは思わず叫ぶ。
「そう思うか?」グルバダは眉を上げた。「そなたも感じたのではないかな? ここでわたしを最初に見たとき、われわれのあいだにある、目には見えぬ強い絆を」
 月光の下、深い光をたたえた青い瞳が、ユナの瞳の奥を見つめる。
「二千年前、そなたとわたしには同じ血が流れていた。それは時をこえ、われわれの魂の中に流れているのだ」
 青い瞳の輝きに魅入られ、ユナはまばたきひとつすることができない。
 彼女にはわかった。グルバダのいっていることは真実なのだと。それを自分も、どこかでずっと感じていたのだと。
 敗北感に打ちのめされてもいいはずだった。それなのに、なぜこれほどまで、深く心が揺さぶられるのだろう?
「あらがうな。心をゆだねてみよ」
 ユナは静かに目を閉じる。
「それでいい」グルバダの声が聞こえた。
 ユナは深呼吸する。
 心の瞳に、ここではないどこか、遠い世界が映った。
 空気が澄んで、きらきらと輝いている。なんて美しいところだろう。森が見え、オオユリの木の群生地が見える。色の花が満開で、虹色のちょうが無数に舞い、色の小鳥が飛び交っている。
「その先に、なにが見える?」甘いささやきが、誘うようにうながした。
 ユナは、遠くを見やる。オオユリの木の群生地の彼方に、一瞬、淡い紫色にきらめく世界が見えた。
 よく見ようと目を凝らした瞬間、そよ風が耳をかすめた。風に乗って、かすかな歌声が聞こえてくる。やさしい聞き覚えのある声。レアナ||
 その瞬間、きりが押し寄せ、なにも見えなくなった。
 
 ユナは瞬きする。
 青い瞳がじっとユナを見つめていた。その瞳に、心なしか落胆らくたんの影がよぎる。
 ユナは眉をひそめた。たったいまなんの話をしていたのだろう?
「そなたの父親の話だ」
 グルバダが静かにいう。
「あのとき、そなたの父親とは、手に手をたずさえることもできた。血は水よりも濃い。ともにすばらしい世界を築くこともできたであろう。しかしながら、ランドリアは、それを拒んだ」
 ユナの心に、揺るぎない信念を秘めたデューの瞳が浮かんだ。当然だ。彼がそんなことをするものか。
 刺すような視線に気づき、ユナははっとする。心を読まれたか||
「案ずるな。そなたの心を読まずとも、その男のことはすでに知っている。いずれ会うのが楽しみだ」
 グルバダは、月に照らされた蒼穹そうきゅう山脈に目をやった。
「あの男は変わらぬであろうな。されど、そなたとは、わかりあえると思っている」
 遠くを見つめたまま言葉を継ぐ。
「かつてわれわれは、自らの意志で生まれ、こころざしなかばで命を落とし、ふたたび、自らの強い意志でこの世に戻ってきた。それぞれに固い決意をいだいて。わたしは、老いと病苦におびえることなく、人が永遠に生きる世界を築くために。そしてそなたは、わたしを止めるために」
 真っ青な瞳がユナを見つめた。
「その望みを、変えてはみぬか?」
 ユナはまっすぐ見つめ返す。
「変える気はないわ。その思いは永遠に変わらない」
 グルバダは、短剣を残したまま、ゆったりとした歩幅で向かいの席に戻った。
「なにごとも一瞬で変わる。ちょうど、こんなふうに」
 一陣の風が吹き下ろして、テーブルを駆け抜けた。豪華な燭台しょくだいに灯っていた蝋燭ろうそくという蝋燭が消え、テーブルの上は、青白い月光で満たされる。
 沈黙が落ちた。
 ユナは、消えた燭台を見つめる。聞こえるのは、自分の声と心臓の鼓動だけだ。
「なにが望みなの?」静かに聞く。「わたしが必要なわけがあるんでしょう? そうでなければ、昔と同じように殺していたはず」
 ユナはグルバダに視線を移した。
 蝋燭の炎が消えたいま、彼の金髪は月の光を受けて白銀にきらめき、その青い瞳は光をたたえたように深く輝いている。
「率直な問いには、率直にこたえねばな」
 グルバダはほほえんだ。
「われわれは古い記憶を胸に秘めて生まれてきた。それぞれに、古い記憶を。それをおぎないあえば、このギルフォスの都を、さらに光り輝く世界にすることができる」
 その言葉に、セティ・ロルダの館でデューとかわした会話がよみがえる。
 二千年前には、いまよりずっと高度な文明があり、フィーンはそれを知っているはずなのに、決して教えようとしない。なぜだと思う? そうデューは聞いた。
 それが間違った方向に||平和をおびやかすような方向に向かっていたからではないかとユナはこたえ、デューも、おそらくね、とうなずいた。
「相変わらず青臭い男だ」
 苦笑交じりの声が聞こえ、ユナはむっとしてグルバダを見る。
 グルバダは意に介さなかった。
「フィーンの中には、さらに古い記憶がある。あのダイヤモンドにまつわる記憶が。長い歴史の中に封印されてきた大いなる秘密が」
 秘密||
 ユナは眉をひそめる。グルバダはダイヤモンドのすべての力を知っているわけではないのか? 知っていて、そのダイヤモンドの剣から、灰色の騎士を生み出したのではないのか?
 グルバダの表情がかげる。
 その瞬間、ユナは、彼の中にいやされることのない乾きがあるのを感じ取った。それがなにかはわからないが、目の前の男の、切ないまでの渇望を。
 ユナは、ふと気づいた。もしかして、彼自身、なにを求めているのかわかっていないのではないかと。もしかして、そのこたえを求めて、彼女を囚えたのではないかと。
 グルバダはふっと笑う。
「そなたは、王の血を引くルシタナの再来さいらい。そなたの魂には、フィーンのすべての記憶が眠っている。おのれですら気づかぬ、心の奥の深いところに」
とらわれの身であっても、心までは好きにさせない」ユナは昂然と頭を上げた。「二度とわたしの心に入ってこないで」
 グルバダはじっとユナを見た。
「そなた、なにか隠しているな。そう構えるな。いまこの場で探るつもりはない。そなたの最後の自由な夜だ。
 明日の朝、そなたはわたしに永遠の忠誠を誓い、影の剣と光の剣による聖なる儀式を受ける。そうして、いったんわたしのしもべとなれば、もはや逃れるすべはない」
 ユナは固唾かたずんだ。魂を奪われ、ただ命令に従う、抜け殻のような灰色の騎士の姿が脳裏に浮かぶ。
「そなたの魂は、大いなるダイヤモンドと深く響き合っている。失われることはなく、記憶を失うこともない。わたしはそなたの中に深く分け入り、そのすべてを洗い出す。魂に刻み込まれた、あらゆる記憶をひとつ残らず」
 グルバダの言葉に、全身が冷たくなっていった。
 今夜脱出するとはいえ、そんなことは想像するだけでぞっとする。それでも、なんとか心を強く持って、彼を見つめた。
「いわなかった? あなたに忠誠を誓う気などないと」
 グルバダは、やわらかな表情でユナのまなざしを受け止める。
「せっかくの晩餐ばんさんだ。いさかいはやめようではないか」
 彼が優雅な仕草で片手を上げると、召使いたちが現れた。
 蝋燭に火が灯され、温かな炎の色が、凍てついた空気を少しだけなごませる。いつしか短剣は消えていた。
 熱いお茶と淡雪あわゆきのようなデザートが運ばれてきて、陶器のカップに、あかね色のお茶が注がれる。
「マレンの葉をせんじたしょうな茶と、羊のヨーグルトを泡立ててマレンの蜂蜜はちみつを添えたものだ」
 グルバダはいい、蝋燭のやわらかな光に、金色の蜂蜜がきらめいた。
「それから、そなたにはもうひとつ特別な一品が」
 彼の目線を追って振り返ると、眉目秀麗びもくしゅうれいな少年が、ドーム状の銀のふたをした皿を運んできた。ユナの前にうやうやしく皿を置き、主を仰ぐ。
 グルバダはうなずき、少年が蓋を持ち上げた。
 ユナは小さく叫んで凍りつく。
 現れたのは、ぞうに巻かれ、赤黒い染みがべっとりとついた布。
 見覚えのある緑、やわらかな生地。この国に入ってからも、ヒューディが肌身離さずストールの下に身につけていたスカーフ||
 身体がガタガタと震えだした。
「美しい友情だな。実に感じ入ったよ」
 ユナは顔を上げる。
「なかなか気骨のある若者だったようだ」
「ヒューディになにをしたの!?
「落ち着け。ただの鼻血だ」
 鼻血||。思わず身体の力が抜けた。
「ヒューディと申すか。名も名乗らず、そなたの名も出さなかったというが、実に運のいい若者だ。この二日間は殿下の喪に服すため、捕えた侵入者やスパイへの拷問もすべて中断しているからな。とはいえ、それも明日の朝までの話」
 グルバダは、ゆったりと椅子にもたれかかってユナを見る。
「そのあとの運命は、そなた次第だ」
 ユナは、呆然と見つめ返した。
「いわなかったか? この晩餐が終わるまでに、そなたの考えは変わっていると」
 真っ青な瞳に、氷のような笑みが浮かぶ。
「それとも、この若者も、あの男と同じように見殺しにするつもりかな?」