「この前、夢を見たんだ」忘れな草のかたわらを通り過ぎ、リーはささやく。「イーラスのやつが発った夜に」
「どんな夢?」姉はささやき返した。
「フィーンのダイヤモンドの夢だよ。光の剣として切り出される前の姿で、信じられないくらい大きな六角
そのとき感じた不思議ななつかしさを、うまく言葉にできなくて、少しのあいだリーは口をつぐむ。
ダイヤモンドは聖なる原初の光を湛え、星々の世界から聴こえてくるような神秘的な調べを奏でていた。けれど、言葉にすると、なにかが失われてしまう。
ふたりはヤドリギ草の一角にさしかかった。リーは足を止めて、やわらかな薄緑の葉を摘み始める。
「急に、工房の空気が変わった。気がつくと、黒いローブをまとった男が、楕円形の薄い銀色の石を手にして、ダイヤモンドの前に立っていた」
リーのかたわらで葉を摘みながら、姉はひとことも口をはさまずに耳を傾けている。
「男は、あいている手をダイヤモンドにかざすと、銀の石を高々と上げて、目を閉じた。それから、低い声でなにか唱えて、かっと目を開けた。
ぼくはとっさにやめろと叫んで、男の腕をつかもうとした。けど、声を上げることも、腕をつかむこともできなかった。ぼくの身体は、どこにもなかったから……。
銀の石が振り下ろされた。ダイヤモンドは目もくらむようなまばゆい光を発して、耳をつんざくような悲鳴を上げた」
幼いころから、リーはよく夢を見た。夢の中で、鳥の声や木々の声、石の声をたくさん聞いた。見知らぬ光景や、見知らぬ人々の夢も見た。さまざまな色彩や香りに彩られた、美しい夢や悲しい夢を、数え切れないほど。けれど、あれほど生々しい夢は、初めてだった。
ダイヤモンドの
リーは葉を摘む手を止め、身体を震わせた。村の石切り場では、石は決してあんな声は上げなかった。この宮殿の掘削現場でも、一度も耳にしたことはない。ただの一度だって||。
姉が心配そうに彼を見た。リーは気持ちを静めて言葉を続ける。
「光はものすごい勢いであたりを駆けめぐった。
それから、突然、すべての音が止まり、すべての動きが止まった。
そして、時が止まった世界で、ダイヤモンドの切り口から、涙のような
けど、いつのまにか、身体はあったんだ。ぼくはまだ幼くて、小さな手のひらの上で、大きな雫が三粒、さざめくように輝いていたよ……」
発掘現場を埋め立てる音が響くなか、薬草園に沈黙が落ちる。風さえも、そよとも吹かなかった。
「ぼくはその雫を胸に抱いて、息をひそめた。と、
指のあいだから、青い光がもれていて、手を開くと、三粒のダイヤモンドが歌いかけてきた。澄んだ声で、どこか遠い世界の歌を。聞いたことがないのに、とてもなつかしい歌を。それから||」
それから、狼の遠吠えが聞こえたのだ。狼は歌っていた。ダイヤモンドの声に寄り添うように、喜びと悲しみに彩られた遥かなる世界の歌を。切なさがリーを包んだ……。
「それから?」ラシルがそっという。
「それから||下を見ると、地上が見えた。白銀の山や雄大な川、どこまでも続くマレンの荒野、そして、石造りの白い街と壮大な宮殿が。
ぼくは、ゆっくりと宮殿に降りていった。宮殿には、高い塔があった。広い庭園には、
工房では、松明やランプを手にした男たちが、なにかを探していた。
すると、暗い工房の片隅で、緑の光が
リーはいいよどむ。
「それは、一匹の黒猫だった。前足を立てて、工房の隅に座ってたんだ。とてもきれいな猫だったよ。猫はぼくを見つめたまま、長い尾をゆっくり振った。ぼくは音を立てないよう、石の床にそっと降りた。
黒猫は、やさしい花の香りがしたよ。やわらかな身体をなでると、足にまとわりついてきて、ごろごろと喉を鳴らした。それから、ふっと消えたんだ。闇の中に溶けるように。
ぼくは、黒猫がいたところに、ダイヤモンドの雫を置いた。そして、祈るように目を閉じた。そうしたら、この世界で目が覚めたんだ……。
ぼくは部屋で寝ていて、いつものように、同僚たちのいびきが聞こえていた。工房も、ダイヤモンドも消えていた。
けど、ぼくの身体には、ダイヤモンドのさざめくような感覚がはっきりと残っていて、夜が明けてからも、長いことまとわりついていた……」
リーは吐息をもらし、姉を見つめた。その夏の空のような青い瞳を。
「あの人がしていたのは、そのダイヤモンドで作ったブレスレットだよ。それがあの人を光の剣に導いたんだ。石同士、互いを呼び合うから」
長い沈黙があった。息のつまるような沈黙が。それから、ラシルはいった。
「二千年前、あんたがそのダイヤモンドを守ったっていうの?」
その声を聞いたとたん、夢の話をしたのは間違いだと思った。気をつけて話したつもりだったけど、話すべきじゃなかったと。
けれど、彼は確かにあの工房にいたのだ。全身の細胞が、あの静かで清らかな光を覚えている。それから、ダイヤモンドの
そして昨日、娘のブレスレットにふれたとき、リーは同じ光を感じ、同じ歌を聞いたのだ。人の思いは読み違えるかもしれない。けれど彼は、石の声を聞き違えたことは一度もなかった。
祖母の言葉を思い出す。
石の声や木々の声に耳を澄ましていると、世界のことがよくわかる。すべてはつながっているのだから。ただ、人は自分で体験したことしか本当にはわからない。たとえおまえが感じていることを、ほかの人にわかってもらえなくとも、がっかりしたりせずに、それを大切にしなさい……。
「そうだね」姉が口をひらいた。「リーは石の声が聴けるから、ダイヤモンドに呼ばれたのかもしれないね」
温かな声だった。リーの心の芯まで温まるような。
「それで、誰がそれをブレスレットにしたの?」
「たぶん、黒いローブの男だと思う」
「え? その男||ダイロスなんじゃないの?」
リーはきっぱりとかぶりを振る。
「あれはダイロスじゃない」
「なぜわかるの?」
「ダイロスより、ずっとダイヤモンドに近い感じがしたから」
「それ、どういう意味?」
「うまくいえないけど、あの男は、ダイヤモンドと、どこか深いところでつながっているような感じがしたんだ。だからこそ、切り出すことができたんだよ……。あの繊細なブレスレットを見ればわかる。ダイヤモンドのことを、とても大切に思っていたんだって」
「でも、大切だったら、剣にしたりするかな」
「もちろん、普通はしないさ。けど、ダイロスに逆らえなかったんだ。だから、その
姉はしばし考え込んだ。
「だけど||その男は、どうやってルシタナのもとに届けたの?」
「きっと誰かに託したんだよ。誰か、心から信頼できる人に」
靴音が響いた。リーは
庭師がやってくるのが見えた。薬草園でのリーの相方で、少しぼんやりしているが、気のいい男だ。それでも、油断はできない。リーは笑顔で片手を上げ、ラシルも会釈をする。庭師は気づき、帽子に片手をあてて笑みを返した。
「ヤドリギ草はもう充分だね」リーは姉に向き直って、いつもの声でいう。「あと、紫ミントはどう? この時期の紫ミントには、ヤドリギ草と同じくらい強い
ラシルの心臓は、降りてきたときよりいっそうどきどきしていた。
ミントを育てている一角は、庭師が手入れを始めた一角からは離れており、発掘現場の埋め立ての音が、ふたりの声をかき消してくれるだろう。それでもラシルは不安になり、身体が小さくふるえてくるのを感じる。弟が、だいじょうぶだよというように、ラシルの手をぎゅっと握った。
紫ミントの茂みは、さわやかな香りで満ちていた。ふたりが葉を摘み始めると、それがいっそう強くただよう。
「この夏の紫ミントは、特に香りがいいね」リーがいう。
「ほんと」ラシルはうなずき、声をひそめた。「ねえ、リー。前にいってたよね? そんなすごい石が近くにあったら、その声が聞こえるに決まってるって。だから、ダイロスは光の剣は遠くに隠したんだろうって。いま、その石の声、聞こえてるの?」
リーはうなずく。
「あいつが肌身離さず身に帯びて、その力を全身で感じてるのも、なんとなくわかるよ」
ラシルはぞっとした。
「あの三粒のダイヤモンドは、もとのダイヤモンドと呼び合ってるんだよね?」いっそう声をひそめ、「だったら、グルバダはその剣を通して、近くに分身があるって気づいているんじゃないの?」
「気づいちゃいないよ」
「どうしてわかる?」
「やつは、あるってことを知らないし、ブレスレットは息をひそめてるから。それに、そうじゃなくても、だいじょうぶだと思うよ。ほら、太陽が照ってるときは、星は見えないだろ?」
そういったあと、リーは手を止め、ぱっとラシルを見上げた。
「姉さん。あのブレスレットを渡して、あの人を逃がそう」
「||どうやって?」
「考えがあるんだ」弟の顔に
ラシルは息を呑んだ。
「リー||そんなの絶対に無理だよ」
「あの人が逃げたら、あいつはまた剣を隠す。けど、あのブレスレットさえあれば、彼女はまた、光の剣にたどりつける。それに、ぼくも手伝える。きっと、どこに隠したかわかるから」
弟は熱っぽくいい、口をはさもうとしたラシルを素早くさえぎる。
「姉さん。明日、儀式が始まったら、あいつはきっと、あの人の力をすべて奪う。そうなったら、なにもかも手遅れだ」
「待って。わたしだって助けたいけど||」
「だったら、あの人に計画を話して。ぼくが洞窟から逃がすから」
ラシルは、はたと思い当たった。
「リー。まさか、また洞窟に降りたんじゃ||」
弟はいたずらっこのように肩をすくめる。
「行かずにはいられなかったんだ。うまくやったよ。一度も気づかれてない」
「一度も? いったい何度くらい行ったの?」
「覚えてない」
なんてこと||。
「洞窟は迷路みたいだっていうじゃないの。足を踏み入れたら一生出られないって」
「暗いせいだよ。目が見えたら、そんな迷わないさ」
弟は幼いころから夜目が効いた。それに、渡り鳥のように方向感覚がいい。夜中にこっそり家を抜けだし、夜の山をさまよう
「それに、迷ったときは、いつも||」リーは一瞬、いいよどみ、「いつも直感が助けてくれた」
「かりに地上に出られたとして、その先どうするの? まわりは敵だらけなんだよ。どうやって逃げるつもり?」
「馬を呼ぶんだ」
「馬||?」
リーはうなずく。
「野生の馬だよ。洞窟から地上に出たとき、月光の下を群れになって走ってた。乗ってみたけど、気性は荒くない。慣れたら口笛で来るようになったし、絶対だいじょうぶだよ」
あきれて言葉が出なかった。
「ほんの二、三回乗っただけだよ」弟は急いでいいそえる。「いざというときのために、試しておきたかったんだ。こんなふうに役に立つとは思わなかったけど」
思わずため息がもれた。
風が吹きおろし、林檎の若木やさまざまな薬草が、さわさわと音を立てる。
「そろそろ戻らなきゃ。一緒に来て、リー。助っ人に呼んでいいっていわれたの」
弟は笑顔になった。
「だったら、歩きながら話そう」
娘にはずっと見張りがついているし、衛兵がそこら中で目を光らせている。弟は、いったいどうやって部屋を出て、洞窟に降りるつもりなのだろう?
回廊に向かう途中、クチナシの手入れをしている庭師と黙礼を交わしながら、ラシルの胸に不安がうずまく。
「やつらを出し抜くのは、そんな難しくないよ」
そんなラシルの思いを感じとったかのように、リーがささやいた。
「抜け道もたくさんあるし、いざというときの隠れ場所もいくつか知ってる」
ふたりはアーチを抜けて回廊に出た。
途中、行き交う者たちに何度か中断されながら、弟は話を続ける。
あの娘を助けたいと思っていたはずなのに、聞くほどに、ラシルの不安は増していった。
「リー」回廊を抜け、渡り廊下から別の中庭に抜けながら、低い声でいう。「そんなうまくいくかな」
「わからない。けど、やるしかないよ」
「もし||もしなにか、思わぬことが起こったら? それに、うまくいったとして、彼女を逃したのが誰だかわかったら?」
そうなれば、必ず殺される。それも、ひどく残酷なやり方で。
自分だけならまだ耐えられる。けれど、弟がそんな目に遭うかと思うと、考えただけで耐えられなかった。
沈黙が落ち、埋め立て工事の音と、ふたりのかすかな足音だけがあたりに響く。
「お祖母ちゃん、いってたよね」
弟が沈黙を破った。
「薬草は毒にも薬にもなる。よい薬草使いになるには、間違った薬草を間違った方法で使わないことだって。それには、いつも澄んだ心で、誠実に生きることだって。迷ったら、心の声を聞きなさいって。
ぼくの心は、あの人を助けろといってる。その声を、ちゃんと聞きたいんだ」
行く手、宙を見つめて話すリーの顔は、ほのかに上気し、こめかみの傷痕がくっきりと浮かび上がっている。
祖母を殺した兵士に向かっていって受けた傷。ラシルがただふるえているとき、小さな身体で屈強な相手にぶつかっていったときの傷||。
「グルバダがあの人の力を奪ったら、世界はすっかり変わる。二度ともとには戻らない」
リーは押し殺した声でいう。
「姉さんとぼくは、変わり果てたその世界でも、たぶんこれまで通り、薬草使いとして生きていける。でも、宮殿が完成したら、村の人たちは殺されるよ。抜け道を掘ったり隠れ部屋を造ったりして、秘密を知りすぎているから」
言葉を切って、ラシルを見上げる。
「姉さんは、それでいいの?」
まっすぐなまなざしが、ラシルの瞳の奥を見つめ、ラシルの心は激しく揺れた。
第31章(2 / 2)に栞をはさみました。