29

 ヒューディの行く手、西の空がいまだ残照に輝くなか、よいやみが迫る東の空には、満月に近い月がかかっていた。
 夜のとばりが降りると、月は輝きを増し、その光に皓々こうこうと照らされた大地に、ヒューディと若駒わかごまの影がくっきりと伸びた。
 小高い丘にさしかかった若駒が、不意に速度をゆるめる。
「どうした、相棒?」
 そう声をかけたとき、西風に乗って、松明たいまつの燃える においが運ばれてきた。
「そういうことか」ヒューディは、ねぎらうように若駒のたてがみをなでる。
 そこからは慎重に歩を進めた。やがて、丘の頂きに出る。
 月光に浮かび上がった光景に、ヒューディは息を呑んだ。
 見晴らす荒野には天幕が延々と張られ、その広大な野営地のそこここに、無数の松明がかれている。夜空を背景に、西の彼方には断崖がそそり立っていたが、天幕はその断崖まで続いており、野営地から断崖にかけての北側は、灰色どもで埋め尽くされていた。
 眠らぬ不死身の騎士に天幕は要らない。彼らは漆黒しっこくの馬に乗ってじっと待機し、夜風にマントをはためかせている。いつ命令が下っても、即座に進軍できる体勢だ。
 その膨大さに圧倒されながら、彼方の断崖に目を転じる。そこにも、無数の火がきらめいている。ヒューディの瞳は、大理石とおぼしきその白っぽい岩壁に吸い寄せられた。
 次の瞬間、その瞳が大きく見開かれ、ヒューディは芯から震える。
 ただの断崖ではない。それは、大理石のがんばんに築かれた、壮大なせっくつの建物だった。
 ダイロスの迷宮跡||
 グルバダは、二千年前のせきの上に、みずからの宮殿を築いたのだ。
 目をらすと、野営地と宮殿のあいだは少し離れているようだった。その空間にも、断崖の壁沿いにも、いくつもの松明が焚かれ、衛兵とおぼしき人影も見える。
 ユナは、あの宮殿のどこかにとらわれているに違いない。
 ヒューディは夜空を仰いだ。白銀に輝く月は、これから天空高く上がる。今宵、その光をさえぎる雲はほとんどない。まっすぐ宮殿に向かえば、たちまち見つかるだろう。
 眼下に目を戻すと、左手、野営地の南に、こんもりした木立があるのが目に留まった。点在する茂みをつたって進めば、あの木立までは行けるのではないか。野営地の周りは、ところどころ灰色の騎士が固めているが、木立のあたりに彼らの姿はない。
 だいじょうぶ。きっと行ける。ヒューディは懸命に気持ちを奮い立たせる。あとのことは、そのときに考えればいい。
 クレナのダンスパーティの夜、レアナと別れたときのことがよみがえる。
 満月の光のもと、長い睫にふちどられたブルーグレイの瞳。背伸びをしてほおにしてくれたやさしいキス。そっと抱きしめたときの、ほのかな花の香り……。
 彼女は、耳もとでささやいた。
 ||戻ってくるの、待ってるわ|| 
 ヒューディはぎゅっと手綱を握りしめる。ユナなしに、ウォルダナに戻るわけにはいかない。
 彼は地面に降り立った。夜はひづめの音が響く。
「ありがとう」若駒の首を抱きしめ、ささやくようにいったあと、身体を離して若駒を見つめた。黒い大きな瞳が、彼をじっと見つめ返す。「さあ、おまえは自由だ」
 ヒューディは背を向け、振り返ることなく歩き始めた。
 
 木々の陰に身を隠しながら丘を降りると、ヒューディは、灌木かんぼくの茂みをつたって、断崖に近い木立にたどりついた。
 一瞬たりとも気は抜けない。どこに灰色がひそんでいるともしれないし、そうでなくとも、灰色どもは嗅覚きゅうかくが鋭いという。風が南寄りに変わったら、彼は風上に立つことになる。
 ヒューディは汗びっしょりだった。息を殺して進んできたのに、心臓はそれを裏切り、痛いほどドキドキと打っている。けれど、それ以外、あたりは妙に静かなことに、ヒューディは気がついた。
 さほど遅い時間ではないはずだが、野営地の方からはほとんど喧騒けんそうが聞こえない。しめやかといってもいいほどで、まるでのようだ。
 連合軍の野営地や駐屯ちゅうとん地では、兵士たちが火を囲み、故郷の歌を歌ったりしていたのに、ドロテ軍はよほど規律が厳しいのだろうか。それとも、明日の早朝、どこか戦地に向かうのだろうか。
 木陰に身を隠して、ぎりぎりまで断崖に近づいてみる。すると、野営地と断崖のあいだに、発掘現場があるのがわかった。ところどころ松明が焚かれ、大きな穴がいくつかぽっかりとあいている。
 きっと、光の剣を求めて掘り進めていたのだ。剣は迷路のような宮殿の奥深くに隠されたと伝えられている。周囲に広がるという洞窟どうくつも含め、あたり一帯を探していたに違いない。
 しかし、もうその必要はない。肝心かんじんの剣が見つかったのだから。今日の午後には、光の剣は運ばれてきただろうし、それに先んじて、早馬はやうまで知らせが届いていたのではないか。
 ヒューディは、発掘現場の向こう、石窟の宮殿に目をやる。
 正面中央には、ゆったりとした石段から続く、高い円柱に囲まれた入口があった。まわりには松明が焚かれ、やりを手にした衛兵がずらりと並んでおり、円柱の上のバルコニーには、ドロテの紋章の入った黒い旗が、夜風にひるがえっている。
 ちょう||
 まさか、グルバダが死んだのか? そう思って、すぐに気がついた。
 イナン王子だ。死のとこにあった王子が、ついに亡くなったに違いない。野営地が静かだったのは、全軍が、王子のに服しているからだ。
 王子もこの宮殿に運ばれていたのだろうか。
 民衆に人気があったイナン王子は、グルバダに操られてほんを起こしたとささやかれている。光の剣が手に入れば、グルバダはもはや、王子の人望も威信も必要ない。むしろ、そんなものはじゃになるだけだ。
 兵士たちにどう伝えられているにせよ、王子がどのようなさいげたかは、ように察しがついた。
 だが、すぐに気持ちを切り替える。考えるな。いまはユナを救うことに集中しろ。
 ひとつ大きく深呼吸をすると、彼は宮殿の入口を見やった。それから、発掘現場の松明に目を移す。
 発掘現場から潜り込めないだろうか。彼らは古い洞窟を探していたはずだ。どこかで宮殿とつながっているに違いない。どうにかして、あそこまでたどりつけないものか。
 そのとき、宮殿の奥からかけ声が聞こえてきた。ぐんの音が響き、入口に衛兵の一団が現れる。見張りにいていた兵士が、全員、そろって整列した。
 交代の時間なのか。そう思ったおりも折、あたりにさっと影が射した。
 見あげると、厚い雲が月を半分隠している。月はみるみるおおわれ、松明の明かりのほか、あたりはやみに包まれた。
 天の助け||
 ヒューディは、一刻もにしなかった。暗闇と衛兵交代の音にまぎれ、発掘現場の松明を目指してひと息に走った。