月はいましがた、小高い丘の彼方に沈んだ。馬を失敬するにはおあつらえ向きの夜。
 聞こえるのは風の音だけで、農場はひっそりと寝静まっている。牧羊犬も眠っているのだろうか。念のため、犬を黙らせるためのえさを用意したが、その必要はなさそうだった。
「気をつけて」ユナはふたりにいう。「なにかあったら、すぐに合図を送るわ」
「わかった」とヒューディ。「きみも気をつけて」
「すぐにすむよ、ユナ」とジョージョー。「親父とは、まとめて五十頭やったこともあるんだ」
 そしてふたりはやみに消え、彼らを待つユナと馬たちのあいだを涼しい夜風が吹き渡る。風は上空ではひゅうひゅうと唸っているが、地上では早春のそよ風のようだ。
 アリドリアスがぶるんと首をふるった。
「ルドが恋しい?」ユナは、そのつややかな金色のたてがみをなでる。「わたしも……。いまにもふとあらわれそうな気がする。なにか怒鳴りながらね」そういって、くすりと笑った。
 アリドリアスは、あいづちを打つように、れた大きな瞳を瞬かせる。
 風の音をぬって、犬の遠吠えが聞こえた。
 ユナの胸に、銀色狼の姿がよみがえる。
 木立の中から現れ、月光のように輝く鬣をなびかせて歩いてきた、王者のような姿。彼女をまっすぐに見つめた金色の瞳。
 ふさふさした鬣に顔をうずめたときの、太陽と月と森の香り。森外れまで、ずっと寄り添うように歩いてくれたときの、切ないまでのなつかしさ……。
 遠い昔、彼女はそうして、銀色狼と一緒に森を歩いていたのだろう。
 ||いにしえのフィーンの世界にいた狼です。この世界に渡ってきてからは、長らく、ランドリアとエレタナが身を隠した森にいました。ふたりがルシタナをもうけ、つかのま暮らした美しい森に||
 レクストゥールの言葉を思い出し、ユナは眉をひそめる。
 古のフィーンの世界とは、どこのことだろう? エルディラーヌならエルディラーヌというはずだ。フィーンには、どこか別の遠いところに彼らの故郷があるのだろうか。なぜあのとき聞き流してしまったのだろう。
 ユナは吐息をもらし、アリドリアスにもたれかかる。アリドリアスの身体はベルベットのようになめらかであたたかい。
 ユナは深呼吸をして、夜の空気を思いきり吸いこむ。
 目を閉じると、まぶたの奥に、不思議な光景が広がった。
 澄んだ水色の空に、水晶のような月がいくつも浮かび、地上には、やわらかな緑の葉と淡い色のつぼみが、そよ風に揺れている。葉擦れの音やせせらぎが響くなか、つぼみのあいだを虹色のちょうが無数に舞っている。見知らぬ風景なのに、なぜか見たことがあるような気がした。
 ピーピルルルル……。やさしい歌声が聞こえ、小さなシルエットが目の前をよぎる。
 一瞬、星のようなつぶらな瞳と、輝く色のつばさが見えた。光の粒がきらきらと降りそそぎ、ユナは、切なさに胸をしめつけられる……。
 
 左手首に軽い痛みを感じ、ユナははっと目を覚ました。
 アリドリアスが足踏みしながら、なにかを訴えるように、さかんに耳を動かして鬣を揺すっている。いつのまに眠ってしまったのだろう。夢を見ていた。
「どうかした、アリドリアス?」夢の記憶が薄れてゆくなか、ユナはいう。
 だしぬけに、背後の繁みから黒い影が飛びだした。
 影はユナが叫ぶ間も与えず、冷たい鋼のような腕で彼女を捕らえ、口もとに強い匂いのする布を押しあてた。
 
 ヒューディとジョージョーが選んだのは、見事な若駒わかごまだった。淡い星明かりに浮かぶ身体は明るい鹿毛で、濃い瞳は深い知性をたたえている。ヒューディは、厩舎きゅうしゃに忍び入ったとたんに、その若駒と目と目が合って、くぎ付けになってしまったのだが、ジョージョーも、すぐにそのひんに目を留めた。
「そいつにしよう。気立てが良さそうだし、スタミナもありそうだ」
 これほどの馬を盗むことに、ヒューディはひどく後ろめたさを覚えたが、背に腹は替えられない。くらあぶみしゅよく調達し、ユナが乗るばかりにたくを調えられた若駒は、嫌がるそぶりも見せず、神妙な様子でヒューディに引かれていた。
「盗みをする奴の気持ちがわかってきたよ」ヒューディは先に立ってフェンスの扉を抜ける。「こんなにたやすくひとさまのものが手に入るんだもんな」
「いつもこうとは限らないよ」扉を閉めながら、ジョージョーがいう。「犬にみつかれることもあるし、窓から足をすべらせることもある。どんな職にもそれなりの苦労が||
 突然、夜のしじまに、ひづめの音とアリドリアスのいななきが響いた。
 彼らは、はっとしてそちらを見る。
 闇になれた目に、マント姿の男が小柄なシルエットを抱え、駆けつけた馬に飛び乗るのが見えた。
 ユナ||
 アリドリアスが、つないである綱をふりほどこうともがくなか、男は蹄の音を響かせて走り去る。一瞬の出来事だった。
 ヒューディは若駒に飛び乗る。
「デューに知らせてくれ! ぼくはユナを追う」
 漆黒の馬の行く手、何騎もの灰色の姿が浮かび上がった。
「ジョージョー!」猛然と駆けだしながら振り返る。「アリドリアスに乗っていけ!」