森はいつしか、明るいトネリコの森から、どこか薄気味の悪い灌木の木立へと様相を変えていた。あちこちに小さな沼が見え隠れするなか、見渡す限り、湿地が続いている。
 地面はぬかるみ、ユナはよろめいて足をとられ、何度も転ぶうちに、むきだしの足はぬるぬるした泥にまみれて、すり傷だらけになった。
 蹄の音は、まだ後方から聞こえてくる。匂いを消せば、彼らをけるだろうか。
 ユナは、思い切って沼地に入った。もとは森だったのだろう。いたるところで水面から枯れ木が姿をあらわし、深いところでも、水はひざたけほどしかなかった。
 ようやく追っ手の気配が途絶えたのは、昼近く、太陽が高く上がったころだった。
 ユナは倒木に腰をおろす。極度の恐怖と緊張で、心身ともに疲れ果てていた。
 と、陽ざしがかげり、あたりが暗くなった。見あげると、厚い雲がみるみる空をおおってゆく。急激に気温が下がり、汗をかいた身体が冷えてきた。
 ユナは、このときになって初めて、湿地の続くこの気味の悪い森に、思わぬほど深く迷い込んでいたことに気がついた。どちらを見ても、同じような沼地が、果てしなく続いている。
 ユナはゆっくりと立ちあがった。
 逃げ込んだのはいいけれど、この森からでられるのだろうか? 恐怖に胸をしめつけられながら、ユナはあてもなく歩き始めた。
 
 さまよううちに、雲はいよいよ深くれ込め、もはや、太陽の位置もわからなくなっていた。
 ついに、疲労は極限にたっし、ユナは水の中にがっくりとひざをつく。大きな波紋が広がり、やがて、静かになった水面に、自分の姿が見えた。
 ひどいありさまだった。つややかだった髪はもつれてほおや首筋にはりつき、やつれきった顔には、額に深い傷が走り、泥がこびりついている。
 レアナがいまのわたしを見たら、わたしだってわかるかな……。
 涙がこみあげ、泥だらけの顔がゆがんでかすむ。ユナはぎゅっと目を閉じた。
 わたし、いったい、どうしたらいいの? 仲間を失い、ルドウィンを失い、ヒューディたちともはぐれ、銀の弓矢も馬もなくし、エレタナから贈られたダイヤモンドのブレスレットもなくしてしまった。
 ただひとつ手もとに残ったのは、ダイロスの光の剣だけだ。いまや、この寒々とした孤独の中で、腰に帯びたずっしりと重いその剣だけが、ユナをこの世界につなぎとめているのだった。
 延々と沼地の続く森を脱し、連合軍の司令部を探してこの剣をフィーンに還すことなど自分にできるはずはない。剣も使命も、あまりにも重すぎる。
「どうして生まれかわってきたんだろう」ユナはかすれた声でつぶやく。「いっそ、死んだまま生まれてこなければよかったのに」
 その言葉が、終わるか終わらないかのうちだった。突如、激しい水音が響いた。
 ユナは目をあけ、さっと身を起こした。
 いつしかあたりには濃い霧が漂い、その中を何者かが集団で駆けてくる。
 この空気の振動は、ドロテ兵ではない。馬の蹄にまじって、別の生き物の気配がする。荒々しい息づかいと、なにかが大きくちょうやくする水音。
「ぜ||前言撤回します」
 ユナのふるえる声に重なって、咆哮ほうこうがこだまする。
 身の毛もよだつような咆哮だった。それは濃い霧を通してあたり一帯に響き渡り、彼女をまどわすように、四方八方から取り巻いた。
 恐怖のあまり、ユナは一歩も動くことができない。
 だしぬけに、霧の中から大きな黒い犬の群れが飛びだしてきた。犬たちは赤い目をらんらんと輝かせ、たちまち彼女を取り囲む。
 魔犬||。二千年前、地上が凍ったときに絶滅したはずの、伝説の魔犬だ||
 ユナは、無意識のうちに腰の剣を抜いた。
 暗い空の下、ダイヤモンドの刀身が、そのきらめく姿をあらわす。
 魔犬たちがいっせいに牙を剥き、低いうなり声を上げた。
 蹄の音が迫り、厚いマントをはためかせ、灰色の騎士たちが姿をあらわす。先頭の一騎が、しゃがれ声でなにか叫んだ。
 二頭の犬がユナめがけておどりかかる。ユナは夢中で剣をはらった。どす黒い血がぱっと散り、立て続けに水しぶきがあがる。
 残りの犬たちは、毛を逆立ててたけり狂い、とりわけ大きな一頭が飛びかかってきた。その強烈な一撃で、仰向けに押し倒される。剣が手を離れた。
 水の中に沈められ、ユナは死にものぐるいでもがいたが、犬は鋭い爪をユナの肌に食い込ませ、恐ろしい力でのしかかってくる。
 濁った水を通して、喉もとをめがけて大きなあごが開くのが見えた。真っ赤な口。ナイフのような鋭利な牙||
 その瞬間、生きたいという意志が、ユナのなかに強くよみがえった。
 わたしには、まだやらねばならないことがある。遠い昔、心に誓ったことが。それを果たすために生まれてきたのではなかったか?
 ここで死ぬわけにはいかないのよ!
 ユナは、渾身こんしんの力を込めて押し返した。