第43章
ヒューディは、夜明け前に目を覚ました。狼の遠吠えが聞こえた気がした。心に、輝く
けれども、もう遠吠えは聞こえなかった。気のせいだったか。
開け放した窓から、星が
ルドウィンは、隣の寝台で安らかな寝息を立てていた。さすがに疲れているのだろう。エレドゥ
ヒューディは、彼を起こさないようそっと床にすべり降りる。素足で窓辺に歩み寄り、暗い中庭を見おろすと、淡い光を帯びたシルエットが歩いてゆくのが見えた。
シルエットが立ち止まり、振り返ってこちらを見上げる。淡い水色の瞳がきらめいた。
「おはよう、ヒューディ」ささやき声が耳に届く。「降りてきませんか?」
ヒューディが中庭に降りると、ヨルセイスは彼を散策に誘った。リーはまだ眠り続けているが、容態は落ち着いており、ラシルが目を覚ましたので、あとをまかせて出てきたとのことだった。
将軍とワイス大尉の出立を見送るまで、まだたっぷりと時間がある。ヒューディは喜んで誘いを受け、ふたりは並んで歩き始めた。
あたりはひっそりと静まり返っている。先ほどの鳥が時おり思い出したようにさえずるほか、聞こえるのは自分の靴音だけで、ヨルセイスはどんなかすかな音も立てなかった。
こうして彼と夜明け前の宮殿を歩いていると、あたかも夢の中にいるかのように思われた。そして、クレナのダンスパーティのときから||いや、クレナに向かう途上、国境の街で灰色の騎士と出遭ったときから、いまに至るすべての出来事が、自分の身に起こったこととは信じられない気がするのだった。
ヨルセイスはアーチをいくつか抜け、別の中庭を通って、いくつもの松明が掲げられた回廊へと向かう。負傷兵の病棟代わりとなった回廊ではなく、初めて通るところだ。
「よく知っているんですね」
感心するヒューディに、ヨルセイスはこたえる。
「二千年前、たびたび訪れたのです」
ヒューディは驚いた。
「なんのために?」
「叔父である王の遣いで、ダイヤモンドを還すようにという書簡を届けるために」
「書簡を? ダイロスに?」
「ええ」
そんな話は、伝説では聞いたことがなかった。けれど、そういわれてみれば、フィーンの王が戦争を避けるため、できるだけのことをしただろうということは、容易に想像がつく。
「結局、ダイロスがそれに応えることはありませんでしたけれど、さまざまな悲劇を避けようと、人々もまた、力を尽くしました。最後は、この王宮でも」
この王宮でも||。そのときも、ヨルセイスはここにいたのだろうか。
ヒューディの無言の問に、ヨルセイスはうなずいた。心なしか、薄い水色の瞳が
「大きな地震があって、宮殿の一部は崩れましたが、この南側は、ほとんど昔のままの姿をとどめています」
ふたりはしばし黙ったままで歩く。
記憶があるとはいえ、迷宮との異名を持つこの広大な宮殿を、すべてめぐったわけではないだろうに、昨日もそうだったが、ヨルセイスはあたかも自分の庭であるかのごとく歩いている。
「石の声に耳を澄ましていれば、迷うことはありませんよ」
ふたたび彼の心を読んで、ヨルセイスはいった。
「ヨルセイス」ヒューディはため息をつく。「あなたにできないことってあるんですか?」
「たくさんありますよ」
「たとえば?」
「たとえば、生まれ故郷で待っている乙女の心をとらえることとか」
ヨルセイスはにっこりし、ヒューディは真っ赤になった。
ヨルセイスにレアナの話をしたことはない。ただ、セティ・ロルダの館で、故郷の話をした際、ユナが彼女の話をしたことがあった。
澄んだブルーグレイの瞳がよみがえる。どこか
||戻ってくるの、待ってるわ||
もちろん、あんな状況だったら、誰だってそんなふうにいう。彼女が本当に待っているのは、幼いころから姉妹のように育ったユナだ。あれからずっと、ユナのことを、どんなに案じているだろう……。
「じきに、宮殿の南に抜けます」
ヨルセイスの声に、ヒューディは我に返る。
いつしか彼らは、天井がアーチになった廊下を歩いていた。壁の手前に下りの階段があり、踊り場から、さらに左へ折れる狭い階段が続いている。
「暗くて急なので、足もとに気をつけて」ヨルセイスはいい、先に立って降りていった。
やがて、長い金髪がふわりとなびいたかと思うと、その姿がすっと消える。そして次の瞬間、ヒューディも涼しい風を全身に受けていた。
夜明け前の澄んだ青に染まる世界。目の前には、うっすらと霧が流れるマレンの森が広がっている。
振り返って仰ぎ見ると、白大理石の断崖と一体となった宮殿が、首が痛くなるほど高々と
「ここが宮殿の南端です」ヨルセイスがいう。
その声を合図にしたかのように、マレンの森で、鳥たちがおずおずと歌い始めた。
マレンのみずみずしい香りがただよい、ところどころ霧が流れるなか、彼らは木々のあいだを歩き始める。森は明るく、ふたり並んでゆったりと歩くことができる。
「マレンの若木はやわらかく、栄養価も高いので、一度にたくさん芽生えても、動物たちに食べられて、自然とまびかれるのです。下生えも豊かで、泉も
静かに始まった鳥たちの歌が、夜明けのコーラスとなってゆくなか、森は徐々に色彩を帯び、青くぼんやりと見えたマレンの実が、金色に染まってゆく。
「馬を呼び寄せるのにも、ここは格好の場所でした」
「馬?」
「ええ」ヨルセイスはうなずく。「デューも仲間たちも、洞窟に潜るために馬を手放したのです。わたしも、乗ってきた馬に、灰色たちを避けて安全な場所に身をひそめるよういいました。そして、ゆうべ落ち着いたあと、愛馬に呼びかけたのです」
「離れているのに、呼びかけが届くのですか?」
「シルフィエムは、どこにいてもわたしの声を聴きます。今回は、シルフィエムをワイスにゆだねて別の馬できたのですが、その馬も、あとからエレタナが乗ってきた馬もふくめて、すべてこの森に導いてくれたはずです」
ヨルセイスの
ヒューディは、深夜の農場で盗んだ馬のことを思った。太陽の光を帯びると、
思ってもせんないことと、忘れようとしていたけれど、なぜかその若駒は、ヒューディの心をとらえて放さないのだった。ウォルダナから乗ってきた馬も、王室の
「もうみんな目を覚ましているでしょう」ヨルセイスがいう。
そのとき、鳥たちのコーラスに混じって、そよ風のように軽やかな音が聞こえてきた。
ヒューディは、わが目を疑う。先頭を切って木立の中を駆けてきたのは、銀色がかった美しい葦毛で、そのすぐ後ろを、明るい鹿毛が駆けてくる。フィーンの馬に一頭だけ混じって、かかとに翼が生えたかのように。
ヨルセイスが愛馬を迎え、ヒューディも、彼に駆け寄って
「アンバー……」
そっと両手を離して若駒を見つめると、若駒は、大きな黒い瞳でじっと彼を見つめ返した。
「帰らなかったのか?」ヒューディは、
「ここに乗ってきたという馬ですね?」
「ええ」ヒューディはうなずく。喜びは一瞬で消えた。「農場に返さなくては」
「トリユース将軍に話してみましょう。農場には、連合軍の方でうまく取り計らってくれるはずです。極秘の任務を帯びたルシナンの勇士が、一刻を争う事態で拝借したわけですからね。それに、エルディラーヌへの旅のおともには、やはり、心を寄せた馬がいいとは思いませんか?」
「え?」
「将軍が話していた平和会議を、エルディラーヌで開くことになったのです」
「平和会議を、エルディラーヌで?」
「ええ。わたしたちの王は、預言が成就されたあかつきには、人の世界との親密な交流を再開したいと望んでいて、そのことをトリユース将軍にお伝えし、昨夜遅くに決まったのです。出発は明後日。エルディラーヌには、すでに早馬を送ってあります」
中庭で鳥たちが歌い、あたりが明るさをましてゆくなか、ラシルはリーの寝台のかたわらに腰掛け、彼の寝顔を見守っていた。
二千年前、リーはこのブレスレットをルシタナに届け、彼女が旅立てるようにした||ヨルセイスはそう教えてくれた。リーはルシタナを助け、彼女もまた、リーを助けたのだと。
ふたりは時を超えた
それなのに、ラシルはゆうべ、なぜかひどく寂しくなって、リーはもう心配ないから先に眠っているようヨルセイスにいわれていたのに、こうして椅子に座ったまま、はらはらと涙を流した。
夜遅く戻ってきたヨルセイスは、涙には気づかないふりをして、エルディラーヌに招待してくれた。そこで平和会議が開かれ、ウォルダナからはルドウィン王子が出席し、ユナも一緒に行く。ユナは帰国前に、もう少し体力を取り戻したほうがいいし、身体を
そしてラシルが、村には薬草使いが必要だし、二年間みんな困っていたはずだから、自分は帰らないと、というと、ヨルセイスはこんなふうにこたえた。
「フィーンの精鋭から二名ほど、あなたの村の人たちとともに行かせましょう。
リーとともにフィーンの国に行ける。祖母が話していた伝説のフィーンの国に。そう思うと、心に明るい光が射したようで、ラシルは長椅子に横になって、たちまちのうちに眠りについたのだった。
ヨルセイスはずっと起きていたのだろうか。ラシルが目を覚ますと、窓辺にたたずみ、夜明け前の暗い空を見上げていた。
そのとき、かすかな気配がして、彼女はふと、リーが眠っている寝台を見た。すると、掛布の上、リーの足もとに、一匹の黒猫がいたのだ。
はっと息を呑んだ彼女に、ヨルセイスがいった。
「驚かないで。リーの猫です。アイラといって、昔から彼のことを慕っていました」
ラシルは、リーの夢の話を思い出した。彼が三粒のダイヤモンドを守ったとき、暗い工房の片隅に、黒猫が現れたという夢の話を。
「ええ、その猫です。洞窟で迷うと、いつも助けてくれたそうです。これまで、ダイロスの魔力が強く残るところには、現れることができなかったのですが、すべての魔力が解かれたいま、リーが目を覚したとき、そばにいたいと思ったのでしょう」
「そうだったの。ありがとう」ラシルがささやくと、黒猫は、エメラルドのような緑の瞳をきらきらと輝かせて彼女を見つめた。
そしてヨルセイスは夜明けの散歩に行き、黒猫は丸くなって、リーの足もとで眠っている。その平和な光景に、ラシルは思わず笑みをもらした。
やがて、ヨルセイスがたっぷりの朝食とともに戻ってきた。庭師のサピが一緒だった。
「これ、リーに」サピは、みずみずしいすみれの花束を差し出す。
「リーの大好きな花……」ラシルはささやく。
サピは、いつもどこかぼんやりした男で、これまでほとんど口をきいたことがなく、こんな細やかな心遣いができるなんて、思ってもみなかった。
「昨日の朝、薬草園に来なかったから、ちょいと気になってな」
「ありがとう、サピ。元気そうでよかった。ほかの人たちはだいじょうぶ?」
「庭師は全員無事だ。薬草使いもほとんど無事で、怪我人の看護を手伝ってる。ただ、イナン王子についてきたのが戦闘に巻き込まれて、回廊の病棟に収容された」それから、少し苦い声でいいそえる。「同じところに、ズーラも収容されてる」
「少尉のことは、わたしも聞いたわ」ラシルはいう。「あの||ブレン軍医がどうなったかは知っている?」
サピの目が宙を泳いだ。
「軍医は死んだ。少尉とは別の病棟に収容されてたが、看護師が目を離したすきに、隠し持っていた毒を飲んだようだ」
ラシルは言葉を失う。そして、自分がショックを受けていることに気がついた。
ユナと剣の奪還が失敗に終わっていたら、ブレン軍医はためらうことなく、ラシルとリーを処刑しただろう。それはよくわかっている。けれど、この二年間、ブレン軍医は、厳しいながら、いつもふたりを
「気の毒に」サピがぼそっという。
ラシルに対しての言葉か、それとも、軍医に対してなのか。たぶん、両方だろう。
「入って、サピ」ラシルは気を取り直していう。「リーは眠ってるけど、声をかけたら、夢の中で聞こえるわ」
サピはうなずき、そうしてくれた。
その午後、リーは目を覚ました。最初に気がついたのは黒猫のアイラで、大きくのびをして立ち上がると、優雅な仕草で枕元に歩み寄り、ひと声みゃおと鳴いた。
リーはアイラを見つめてにっこり笑い、アイラは満足そうにごろごろと喉を鳴らした。