第43章 前半へ12第43章 後半へ

 二日後、ユナたちはエルディラーヌに向けて発った。
 テタイアの南には白銀の川が流れ、その対岸はエルディラーヌなのだが、両岸には延々と断崖絶壁が続き、河畔に降りることすらできない。そこで、いったんルシナンに入ったあと、白銀の川を目指すという。
 宮殿に来たフィーンの精鋭の半数が、昨日のうちに発っており、港で準備を整えて待っているとのことだった。
 そこまでは、馬での旅だ。ユナは支えられれば歩けるようになり、リーも寝台の上で起き上がれるまでに回復し、デューもずいぶん良くなっている。フィーンの馬なら、かつてルドウィンを運んだように、怪我人をやさしく運ぶことができるため、馬車よりずっと負担が少ないとのことだった。
 ユナはヨルセイスが今回乗ってきた白馬にエレタナと、リーはヨルセイスの芦毛にヨルセイスと相乗りをして、デューはもちろん、ルドウィンとラシルもフィーンの馬を借りるなか、ヒューディは例の農場で失敬した若駒をともとした。黒い大きな目をした明るい鹿毛で、ユナもひと目で好きになった。
 ラシルとリーの村の者は、すでに故郷に向けて発っており、一行を見送ったのは、宮殿に残ったフィーンの精鋭とサピというひとりの庭師で、それはごく静かな旅立ちだった。
 晴れた空の下、金色に実ったマレンの実が太陽の光に輝いている。風もきらきらと澄み渡り、あのとき降りそそいだ虹色の光が、世界を洗い清めたかのようだった。
 道中もおだやかで、砂嵐に遭うこともなく、夕暮れどきになると、ヨルセイスは全員が休めるような洞窟を見つけた。
 黒猫のアイラは、昼のあいだはどこにも姿が見あたらないのに、夜になり、みんなで焚き火を囲んでいると、決まってリーのそばに現れた。
 時おり気まぐれに、ユナの足もとにもすり寄ってきた。そっとなでると、アイラは温かく、ベルベットのようにすべらかだった。
 
 夏至の朝。太陽がまばゆい光を投げかけるなか、一行は、シャナイ山麓の南端からリーズ川を越え、ルシナンに入った。
 国境にはワイスが迎えにきていた。佐官階級の軍服に身を包み、胸には真新しい勲章が輝いている。トリユース将軍と司令部に戻ったあと、ヴェテール奪還とギルフォスの決戦における貢献により、二階級特進で中佐に昇進したのだった。
 デューがワイス中佐と呼びかけると、彼はほおを染め、レイン大佐と呼び返した。
「俺はまだ少佐だが」
 デューは眉を上げ、ふたりは笑って馬を寄せる。馬上で抱擁を交わしたあと、ワイスがいった。
「この先の村で、トリユース将軍が手ぐすね引いて待っている。昼食と、大佐の肩章を用意してね」
 それから彼は、特別な働きをたたえられて殊勲賞を授かったウォルダナの少年も、その活躍を支えた見事な栗毛の馬とともに待っているといいそえた。
 そして、古い水車のある小さな村でのうれしい再会のあと||ジョージョーはユナとルドウィンとヒューディに抱きついて、人目もはばからずおいおい泣いた||彼らはトリユース将軍に先導されて村を発った。ルドウィンはアリドリアスに乗り、ジョージョーは、ルドウィンが乗ってきたフィーンの馬にまたがって、白銀の川の港へと。
 
 港ではフィーンの精鋭たちが待っており、白銀の川に浮かぶ美しい帆船はんせんの姿に、誰もがため息をもらした。
 雄大な流れの向こうはエルディラーヌだ。右手には白亜の崖が連なっていたが、対岸はなだらかで、さまざまな色調の緑が、午後の陽光に輝いている。
 船からは、ゆるやかな渡り板が掛けられ、ユナたちは河岸から騎乗のまま乗船し、馬を預けたあと、甲板かんぱん出帆しゅっぱんを見守った。
「二千年前は、このあたりは川幅が狭く、流れも急で、このような船は入ってくることができませんでした」ヨルセイスがいう。「そのため、ずっと小型の船で、この川を下ったものでした。つい昨日のことのようです」
 行く手を見つめる水色の瞳が、心なしか深いかげりを帯びる。ユナはそっと彼を見た。人の世界が滅びゆくとき、彼はその目で多くの悲劇を見たに違いない。そして、ずっとその悲しみを抱いて生きてきたのだろう。
「あの||」ジョージョーがいう。「ひいちゃんは、フィーンは人の世界に渡れても、人はこの川を渡ることはできないっていってたけど、そうなんですか?」
「ええ」ヨルセイスはうなずいた。「白銀の川は一見おだやかに見えますが、水面下の水の流れが複雑で、ところどころ大きな岩が隠れています。しょうの危険とも、つねに隣合わせなのです」
「座礁||?」
 あおくなったジョージョーに、ヨルセイスは笑顔でいう。
「安心してください。わたしたちはこの川を知り尽くしていますから」
 船は風をいっぱいに受け、悠々と流れる大河をゆっくりと下りはじめた。
 ユナは、ルドウィンと並んで甲板の手すりにもたれ、過ぎゆく光景を眺める。遠い昔、ついぞたどりつくことのなかった母の母国。こうして大切な者たちとともに、そこへ渡ってゆくのだと思うと、それはひとつの奇蹟のように思われた。
「エルディラーヌに行けるなんて……」吐息をもらし、ふと隣を見上げる。「ルド」
「ん?」
「もしかして、クレナに帰るのを待ってほしいっていったとき、平和会議がエルディラーヌで開かれるのを知っていたの?」
「いや。あのときは、まだ決まってなかった」ルドウィンはこたえ、軽く眉を上げていいそえた。「ヨルセイスから、そうなるかもしれないとは聞いていたけどね」
 
 甲板で景色を楽しんだあと、ユナたちはお茶の用意が整えられた広い部屋に移った。
 リーは、馬上ではヨルセイスに支えられ、半分眠っていることもあったのに、この日はずっと起きていて、いまも、濃いとび色の瞳をきらきらさせて、大きな窓から過ぎゆく光景を眺めていた。
「リー」ラシルがいう。「ちょっと休んだほうがよくない? 着く前に起こしてあげるから」
「もういやというほど眠ったよ。船の旅は初めてだし、それに、エレタナやヨルセイスと一緒にフィーンの船でエルディラーヌに行くんだ。寝てなんかいられないよ」
「そんなこといって、着くころに眠くなっても知らないから」
 ラシルはいったが、リーはまったく意に介さず、エレタナを見上げ、子どもらしい率直さで、フィーンの王と王妃はどんな方なのかとたずねた。
「失礼なこと聞かないの」あわててラシルが口をはさむ。
「かまわないわよ」エレタナはにこやかにいった。「そうね、リー、ふたりはわたしの両親だけど、すべてのフィーンにとっても、かけがえのない存在だと感じているわ。たぶん、平和を愛する気持ちが、フィーンの中でもことさら強いんじゃないかしら。暗い時代に、みんなを率いていかなければならなかったから」
 リーはじっと耳を傾け、他の者も静かに聞き入る。
「フィーンはみな金色の髪をしているけれど、その中で、父とレクストゥールだけは違っていた。レクストゥールは銀色で、父は黒髪。そのうえ父は、七色に変わる瞳を持って生まれたの。たとえば、真っ赤に燃える瞳は激しい怒りを、きらめく金色は大いなる喜びを映しているといわれているわ。わたしは、そのどちらも見たことはないけれど」
「いつもは何色なの?」
 リーの問いかけに、エレタナはちょっと考える。
「そうね、緑に近いはしばみ色かしら。悲しい過去を思い出して沈んでいるときは、それが深いあい色になるし、やさしく温かな気持ちのときは水色に、それから、母のことをそっと想っているときには色になるわ」
「王妃様は瑠璃色の瞳をしているの?」
「ええ、そうよ」エレタナはほほえむ。「明るい瑠璃色の瞳に、絹のようにつややかな金髪をして、やさしいけれど、芯は強くて、父の心の支えになっている。少女時代は、たいそうなおてんで、いつもまわりを困らせていたそうだけど。ねえ、ヨルセイス?」
「ええ、本当に」ヨルセイスはこたえ、「そうそう。あなたの小さいころも、よく似ていましたよ」
「あら、そうだったかしら」
 エレタナは、いたずらを見つかった子どものように肩をすくめ、みんなが思わず笑ったところに、甘酸っぱい香りを漂わせて、黄金色の焼き菓子が運ばれてきた。
「わぁ」リーが目を輝かせる。
「ミンカです」ヨルセイスがいった。「その昔、エルディラーヌに渡った人たちから教わったものです」
 お茶のおかわりもふるまわれ、干しあんず胡桃くるみの入ったその素朴な焼き菓子に、みんなでしたつづみをうつ。ジョージョーがぽつりと、フォゼにも食わせたかったとつぶやき、ヒューディがそうだなとやさしくいった。
 リーはすっかりミンカが気に入り、いくつもほおばりながら、二千年前の恋物語を聞きたがった。エルディラーヌの大会議で出逢ったランドリア王子とエレタナ王女の物語を。
 十一歳の子どもの質問に、はにかみながら応えるふたりは、なんだかとても初々しかった。そして、デューがとうとう、ちょっと話題を変えないかなといって、どっと笑いが起こるまで、初めて逢ったときに、エレタナが瞳と同じ濃い紫に輝くすみれ石のペンダントをしていたことや、ヨルセイスがふたりの駆け落ちを手引きしたことなど、伝説にはなかった話に、ユナもドキドキしながら耳を傾けたのだった。
 
 旅は順調で、船は白銀の川をすべるように進んでいった。ルドウィンは、トリユース将軍やデューたちと会議について話しており、ユナはヒューディと甲板に出てげんにたたずみ、きらめく流れとエルディラーヌの緑の大地を見つめていた。
 もうすぐフィーンの王と王妃に会うのだと思うと、胸の奥が苦しくなる。使命を果たしたと本当に認めてもらえるだろうか。もしかして、フィーンの至宝を守る道もあったのではないか。
 そんなことを思いながら、ふと船首の方に目をやると、ひとり行く手を見つめるエレタナの姿があった。
 かつてエルディラーヌから手に手をとって逃げたあと、ランドリアはダイロスとの一騎打ちで命を落とした。今回、ふたりは初めて一緒にその地に戻るのだ。今度は父も認めてくれると思う||そうエレタナはいっていたが、やはり不安に違いない。
 なにか声をかけようかと思ったとき、デューが甲板に出てきた。ユナとヒューディに目で笑いかけたあと、エレタナのもとへ歩み寄る。それから、だいじょうぶだよというように、そっと彼女を抱き寄せた。
 
 夏至の日は長く、船はまだ明るいうちにエルディラーヌの都に着いた。緑の庭園に囲まれた王宮が、陽の光に輝きながらゆっくりと近づき、いくつもの鐘が鳴り響く。歓迎の鐘だとヨルセイスがいった。
 王宮の船着き場では、王みずからが、王妃とともに、側近たちと待っており、船を降りた一行を出迎えた。
 王は夜のとばりのような漆黒しっこくの髪をして、星をちりばめたようなマントをまとっていた。
 その姿は威厳に満ちて近寄りがたく、たかのように鋭い瞳は何色ともいいがたかったが、エレタナに紹介されたユナが、ひざを折って挨拶をすると、その瞳がやわらかな水色を帯び、金色の光が瞬いた。王がユナの知らない言葉をささやき、ユナは流星のようなきらめきに包まれた。身体から重みが消え、一瞬、どこにいるかを忘れる。
 気がつくと、王妃が目の前にいた。
「ユナ」湖を思わす瑠璃色の瞳がユナを見つめる。「こうして会えて、本当にうれしいわ。なんて素敵な夏至の日でしょう」
 王妃はほほえみ、王がユナにかけた言葉が、古いフィーンの言葉で、永遠の祝福を意味するのだといい、わたしからも祝福をと、ほおにやさしくキスをした。
 かたわらでは、エレタナが王にデューを紹介している。王妃はユナを抱き寄せたまま、そちらに目をやり、ふたりの男が見つめ合うのを、心配そうに見守った。
 王の瞳の色が深まり、濃い藍色を帯びる。あたかも、過去のすべての悲しみがよみがえったかのように……。
 ユナがはっとした次の瞬間、デューが笑顔でいった。
「お久しぶりです、陛下」
 王の瞳に、金色の光がきらめく。それから、大きく一歩踏み出すと、力強い腕でしっかりと彼を抱きしめた。