第35章
リーは夜の薬草園へと急いでいた。
ブレン軍医に薬草を頼まれているのだが、一番の目的はブレスレットだ。深夜の脱出行の際には、薬草園は通らない。いまのうちに手にしておく必要がある。
これまでのところ、万事順調。リーが軍医に呼ばれたとき、軍医の助手を務めていた姉は、彼に素早くウインクをよこした。あの娘にちゃんと話せたという印だ。
足早に歩きながら、リーは娘へと思いを馳せる。
グルバダを前に、心の守りをしっかり固めているだろうか。秘密の匂いをかぎつかれ、
この宮殿を訪れるたびに、自ら発掘の陣頭指揮に立っていたグルバダ。その胸にはいつも、フィーンのダイヤモンドに対する
あの娘は、フィーンの王の血を引くルシタナの
二千年前は殺したのに、今回グルバダは、彼女を生きたまま捕えた。
そこには、フィーンのダイヤモンドだけでなく、フィーンの王家||あるいはフィーンそのものへの、ただならぬ思いがあるのではないか。
たとえ彼女がなにかを隠していると気づかなくとも、グルバダはただ、自分の力を思い知らせるために、彼女をとことん追いつめるだろう。そうでなければ、晩餐になど招待するはずはない。
軍医から頼まれたのは、咲き始めたばかりの
ただし、彼女の消耗は、軍医の予想よりずっと激しいに違いない。
いつもなら、こんな静かな夜には、中庭のほうから、さまざまな植物の声が歌うように聞こえてくる。
けれどいま、リーの呼吸は浅くなり、耳の奥で血液の流れる音がどくどくと響いて、まわりの音はほとんど入ってこなかった。
不安にかられながら、渡り廊下を回廊へと抜ける。並んだアーチのあいだから、中庭が見えた。月はまだ、まわりの建物から顔をのぞかせておらず、ほのかな星明りだけが降り注ぐ薬草園は、ひっそりと闇に沈んでいる。
彼女はだいじょうぶだろうか。
中庭へのアーチが近づくにつれ、胸のざわめきは大きくなってゆく。
アーチを抜けて地面へと降りたったとき、左腕から心臓にかけて、鋭い痛みが走った。リーはバスケットを取り落とす。彼女が追いつめられているのがわかった。理屈ではなく、全身の細胞で。
もしもそんな状態でなかったならば、リーはきっと、闇にひそむ敵意にとうに気づいていたに違いない。
だが、今夜の彼はひどく無防備で、飛び出してくる影に気づいたときには、がっしりとした手に喉をつかまれ、宙高く持ち上げられていた。
アーチの壁に叩きつけられ、一瞬、意識が飛ぶ。
「このくそガキ!」低い押し殺した声。
目を開けると、らんらんと燃える二つの目が、彼を睨みつけていた。ズーラ少尉||。
片手で喉もとを、もう一方の手で右腕をおさえつけられ、リーの小さな身体は宙に浮いている。夜目が効く瞳に、ズーラのこめかみに浮かび上がった青筋が、ぴくぴく
「いったいどういうつもりだ? え?」
リーは空気を求めてあえぎ、両足でむなしく壁を
「わざと薬を変えたな!」
ズーラの声が
しっぺ返しは覚悟の上だったが、もう少しあとだと思っていたし、これほど殺気立った少尉は見たことがなかった。
「嘘をつくな!」
嘘ではない。配合は違うが、薬は同じだ。
ふたたびかぶりを振ったとたん、ズーラの手にぐっと力がこもり、視界がかすんだ。
この時間、庭師は来ない。連合軍兵士の出陣を明日にひかえ、姉と彼以外、薬草使いは全員野営地に出払っており、ズーラも当然そのことを知っている。
恐怖と苦痛の中で、リーには、あの娘の苦痛も極限に達しているのがわかった。
気を失っちゃだめだ。必死に自分にいいきかせる。
もしもダイヤモンドを通して、あの娘とのあいだに、目に見えない
少尉がまたなにかいう。だが、リーにはもう、なにをいっているのかわからなかった。
薄れゆく意識のなか、最後にやさしい面影が浮かぶ。
お祖母ちゃん……。
宮殿の最上階。優美な空中庭園にしつらえられた晩餐の席で、ユナはなにひとつ考えることができなかった。
グルバダの言葉が耳にこだまする。
||あのときも、そなたはさぞ辛かったであろう||愛する男を見殺しにして、ひとり洞窟から逃げるのは||
ユナの胸はずたずたにされ、耐えがたい痛みに息がつまった。
両肩に置かれていたグルバダの手に、力がこもる。それから、その手がすっとユナから離れた。
涙でかすむ視界に、光がひらめく。
ユナは目を瞬いた。彼女の前、ちょうど顔の高さで、銀色の刃が、月の光と
短剣||。薄いローブから少し透けて見えていた、グルバダがただひとつ帯びていた武器だ。
本能が逃げろと叫ぶ。
けれどユナは、身動きひとつできなかった。
「ズーラ少尉! なにをしているんです?」
突然響いた声に、リーははっと意識を取り戻した。
少尉の手が喉から離れ、どさっと地面に落ちる。息をしようとして、激しくむせた。
「ちょいと焼きを入れてやっただけだよ」上の方で少尉の声がする。
それから、靴音が遠ざかった。
誰かに助け起こされ、リーはどうにか空気を吸い込む。
「だいじょうぶか?」
聞き慣れた声に、リーはびっくりした。庭師のサピだ。焦点を合わせようと瞬きする。目にたまっていた涙が、ひと雫ほおをつたった。
サピはリーをアーチの壁にもたせかけて
「ここで待ってろ」
リーは黙ってサピの後ろ姿を見送った。
喉はまるで燃えるようで、壁に叩きつけられた後頭部はガンガンし、背中や腕などあちこちが痛む。だが、それよりも、彼女のことが気になって仕方なかった。
強い娘だとはわかっている。彼女の瞳を見たときに、はっきりとそう感じた。けれど、グルバダは、その強さを揺さぶるほど卑劣な手に出ているに違いない。
サピが
まばゆい光が降り注ぎ、夜の薬草園が、雨で濡れたようにきらきらと輝く。
お願いです。その美しさに打たれながら、リーは大いなる存在に祈った。どうか、彼女を守ってください。
サピはすぐに戻ってきた。ひょろりとして
「ありがとう」リーはかすれた声でささやき、受け取ろうと手をのばす。
けれど、ふるえる手には力がまったく入らず、胸もとまでも上がらない。
「じっとしてろ」
サピは月光の下でリーの襟を大きく開き、顔をしかめた。
「ひどいな……。ほかに怪我はないか?」
彼はリーの身体をあちこち調べ、後頭部を押さえる。そっとふれられただけだったが、思わず身をすくめた。
「痛むか」
「少し」
「吐き気やひどい頭痛がしたら、すぐに軍医に診てもらえ。転んだといえばいい。少尉のことは話せんだろう」
サピは、リーの袖をまくりあげる。右腕に、太い指の跡がくっきりと残っていた。
「見えないところばかり狙いやがる」袖を戻し、ため息まじりにかぶりを振る。「降りてきてよかった。
「リー、おまえは腕のいい薬草使いだ。しかしな、それだけにやっかみを買うこともある。目立たんよう気をつけろよ」
「わかった」リーはこたえ、心でいいそえる。
いつもはそうしてるんだよ、サピ。けど、今度ばかりは、そうはいかなかったんだ。
「軍医になにか頼まれたのか?」
「うん。この冠草を」
「だったら、もう少し摘んできてやる」
「だいじょうぶ。ほかにもあるし||」それがダイヤモンドのブレスレットだとはいえない。リーはにっこり笑ってみせた。「もう平気だよ」
サピは、疑わしげに彼を見る。だが、リーがよろめきながら立ち上がろうとすると、黙って手を貸した。
「ほんとにありがとう」
サピは、いいさというように肩をすくめる。
「俺は羽衣草の面倒を見てくる。なにかあったら声をかけるんだぞ」
「ありがとう。そうするよ」