ローレアの花のやさしい香りに、ユナは目を開けた。かすかに、煎じ薬の匂いも感じられる。
彼女は寝台に横たわっており、かたわらの椅子では、エレタナが窓の外を眺めていた。
太陽の光からして、午後の遅い時間だろうか。風に乗って、音楽や人びとの笑いさざめく声が聞こえてくる。
エレタナが彼女の方を向き、ぱっと顔を輝かせた。
「ユナ!」
「エレタナ……」
ゆっくりと記憶がよみがえり、ヨルセイスがリーを抱えている姿が思い出された。
「リーはだいじょうぶよ」ユナの思いを察して、エレタナがいう。「ヨルセイスの手当を受けて、眠っているの。いまはラシルがついているわ。あなたは? 気分はどう?」
エレタナの言葉に、ユナは全身の痛みが驚くほどやわらいでいることに気がついた。
「ずっと楽になってる」
「よかった」エレタナはほほえむ。「宮殿のドロテ軍は投降して、少し前、トリユース将軍が到着したの。ルドウィンとヒューディは将軍を出迎えているわ。ワイス大尉とヨルセイス、それに、デューも一緒よ」
ユナはほっと吐息をもらした。
「ありがとう、エレタナ||ここに来てくれたことも、なにもかも」
「デューのあとを追ってきたの。あのひと、わたしを置いて行ってしまったけど、きっと必要になる気がして」
そういたずらっぽくこたえる紫の瞳は、いつになく明るい光を
「ラシルに声をかけてくるわね。あなたが目を覚ましたら、新鮮な冠草のお茶を
「エレタナ」ユナは、扉に向かった彼女を呼び止める。「わたし、思い出したの。デューが誰だったか。||デューも、思い出したのね?」
エレタナは振り返った。そのほおが、
「ええ」彼女はうなずいた。
「よかった……」
「ありがとう」エレタナはユナを見つめ、言葉を継ぐ。「ユナ、本当によくやったわね。わたしたち、あなたのことをとても誇りに思っているわ」
不意に、ユナの脳裏に、銀の
悲しみとともに、苦い思いが胸に広がる。
「ごめんなさい、最後まで使命を果たせなくて……」
エレタナは驚いたように戻ってきた。
「ユナ。あなたは使命をまっとうしたのよ」
「だけど、ダイヤモンドを還すことは……」
「預言は、あなたが光の剣を手にして影の力を止めると
「わたし||レクストゥールに会ったの。裁きの森で助けられて、いろんなことを教えてもらった。でも、光の剣を還さなくていいなんて、それこそひとことも||」
「そうでしょうね。それは、あなた自身が見いださなければならないことだから。レクストゥールには、あなたが選ぶ道が最善の道だとわかっていたのよ」エレタナは静かにいった。「そのレクストゥールだけど、さっき、ヨルセイスのもとに訪れたの……」
エレタナが出ていったあと、少しして、冠草のお茶のやさしい香りとともに、ラシルが入ってきた。彼女がユナに会いたいだろうとエレタナが気を利かせ、リーのもとに残ってくれたとのことだった。
ラシルはほおの涙の跡に気がついたに違いない。けれども、そのことにはふれず、ユナの上体を起こして、枕やクッションを背中にあて、寝台にもたせかけてくれた。
「もしいま弟が目を覚ましたら、きっと驚くでしょうね。フィーンの王女様が目の前にいて。祖母はよく昔話を聞かせてくれたけど、リーはルシタナの伝説が一番好きだったんです」彼女はいい、ちょっと考えて言葉を継ぐ。「それで、ここでの生活に耐えられたのかもしれません。いつかきっとルシタナの再来が現れると、心から信じていたから」
ポットのお茶をカップに注ぐラシルの手を見て、ユナははっとした。その甲にくっきりと刻まれていた
「ヨルセイスが消してくれたんです」ユナの視線に気づいて、ラシルはいった。
それから彼女は、ユナにカップを差し出して、かたわらの椅子に座ると、ヨルセイスとリーが地下の洞窟からユナのもとに走るあいだ、円柱の陰にじっと身をひそめていたことや、真っ白な光が正面玄関から射したあと、天井から虹色の光の雫が降りそそいだことを、静かに語った。
「光の雫は空から降ってきたのだと、あとになって知りました。それが宮殿の白大理石の屋根や床を通り抜けて、大広間の天井から降ってきたのだと。
それから、灰色の騎士が倒れる音が響き始めて、次々と砂になって||どれくらいたったときだったか、フィーンの戦士が、グルバダは死んだと叫びました。大広間がどよめいて、そのあとイーラス大佐が、フィーンの戦士を率いてきたレイン少佐に、剣の勝負を挑んだんです」
「レイン少佐||?」
「ええ。デュー・レイン少佐です。灰色の騎士の
イーラス大佐は、剣の腕にかけては、
ただ、レイン少佐も重傷を負って、フィーンの戦士がすぐに応急処置をしました。フィーンにはすぐれた
ユナの顔色が変わったのに気がついて、ラシルははっと言葉を切る。
「ごめんなさい。目が覚めたばかりなのに、こんな話||」
「いいのよ。話してもらえてよかった」少しためらい、ユナは聞く。「ブレン軍医やズーラ少尉のことは知っている?」
ラシルはかぶりを振った。
「イーラス大佐が倒れたあと||大佐はそれで勝敗を決めようといっていたのに||何人ものドロテ将校が、兵士たちに戦うよう呼びかけたんです。逃げ出す兵士も大勢いて、あたりは混乱状態に陥って、フィーンの戦士は、レイン少佐を安全な場所に運ぼうとしていました。そんなとき、エレタナが走ってくるのが見えたんです。ルドウィン王子とヨルセイスがあなたとリーを抱えてくるのも。それで||」
ラシルの話はノックの音で中断された。ラシルは立ち上がり、どうぞといいながら扉に歩み寄る。
「ラシル! ||ごめん、エレタナが出ると思った」
「エレタナは、いまリーのところなんです」
「そうか。将軍の言伝を預かってきたんだ。それと、ルドに様子を見てこいって||」
「ヒューディ!」ユナが声を上げると、ヒューディは、はっとこちらを見る。
「ユナ!」彼は風のように飛び込んできた。「目が覚めたんだね! よかった!」笑いながら両腕を広げ、ユナをしっかりと抱きしめる。
「ヒューディ」ユナは彼の背に腕をまわしてささやいた。「追いかけてきてくれたのね」
「当然だよ。友だちじゃないか」彼はいい、そっと身体を離してユナを見る。「ごめんよ。あのとき農場でひとりにして」
「そんなこと||」ユナはかぶりを振った。「それよりヒューディ||よく無事で||」
「セティ・ロルダの館で、ヨルセイスに剣術の手ほどきを受けておいてよかったよ」彼は笑う。「それに、デューやフィーンの戦士が駆けつけてくれたしね。ワイス大尉にも救われた。でなきゃ、あの巨漢の黒
ヒューディのかたわらで、ラシルが凍てつくのがわかった。ヒューディは彼女を見る。
「ルドウィンが、リーに儀式の円陣のメンバーを聞いたといってたけど、あの黒装束は、きみらの上官なんだってね」
「死んだんですか?」ラシルはかすれた声で聞いた。
「いや。さっき、負傷兵の臨時の病棟になってる回廊を通ったら、痛み止めをよこせって大声でわめいてたよ。あれじゃ死神も近寄らないね。考えてみれば、全身天然の厚い
ラシルは笑い、そうですねという。
「首都のメルセダには、もう早馬が着いたんじゃないかな。テタイア国王は、明日にも、王立軍と連合軍の勝利を全世界に告げる。このギルフォスにも王立軍が送られてくるだろう。それまでは、ルシナンの騎兵部隊が残るそうだよ。リーが元気になったら、きみたちも村に帰れるね」
ヒューディはそういって、やさしくラシルを見つめ、ラシルは本当にうれしそうにうなずいた。
「そうだ、ユナ。トリユース将軍から
「そうなの?」ユナは眉をひそめる。
「ああ」ヒューディはうなずいた。「ちなみに、いまのとこ、きみのことはこうなってる。ルシタナの再来は、剣の魔力を解いたあと、どこへともなく去って、名前もどこから来たのかも、誰も知らないと」少し言葉を切り、「グルバダの手先は、ウォルダナからの旅人を探していたけど、詳しいことは、イーラス大佐を含めてごく少数の側近しか知らなかったようだから」
「ヒューディ。だったら、トリユース将軍に、そのままにしておいてほしいと伝えてもらえる? セティ・ロルダの会議では、わたしたちの使命は、あの面々だけの秘密だった。そのことは、将軍だって覚えているはずよ」
「きみはそういうだろうって、ルドがいってた」ヒューディはにっこりする。それから、立ち去る前に、もう一度ユナを
窓から見える空が淡い紫を帯び、部屋の中もやわらかな色合いに染まるなか、ユナの耳は、長い廊下の向こうから、大きな歩幅で足早に近づいてくる靴音をとらえた。靴音は部屋の前で止まり、ノックが響いた次の瞬間、ルドウィンが入ってきた。
「やあ、ラシル」出迎えたラシルに声をかけ、ユナのもとに歩み寄る。「ユナ。思ったより元気そうだ」
「本物のルドなのね?」彼女はささやく。
「もちろん、本物さ」ルドウィンはこたえ、すっと身をかがめると、片手で彼女の顔を持ち上げ、くちびるを重ねた。
想いのこもった長いキス。淡い紫の光のなか、すべての悲しみが涙となってほおを伝う。
彼はそっと身体を離し、ユナを見つめてほほえんだ。
「これでわかった?」
ユナは笑い、なぜかまた、涙があふれそうになる。
「わたし||あなたは死んだとばかり||。最後の従者、すごく強そうだったし、洞窟も崩れ落ちて||」
「おっと」ルドウィンはさえぎり、軽く眉を上げて笑った。「心外だな。そんなやわだと思われていたとは」
「だって……」
「剣の間は崩れなかったんだ」彼は椅子を引き寄せ、腰をおろす。「崩落したのは、ごく一部だったんだよ。洞窟はギルフォスまで続いていると聞いていたし、途中で外に出られるだろうと、見当をつけて先へ進んでいった」
「でも||どうやって? 洞窟は真っ暗だし、水も食べものもないのに||」
「おちびちゃん、エレタナのリュールは、誰が預かっていたと思っていたのかな?」
「ああ!」そんなことは、すっかり忘れていた。「でも、迷路のような洞窟でよく||。それに、一度、あなたの幻を見たの。てっきり幽霊だと||」
「嵐の日に見たのかい?」
「||どうしてそれを?」
「あれは、ぼくだったからさ」
「あなただったって||でもあなたは||」
「洞窟にいた。そこできみの姿を見たんだ。嵐のなか、きみは橋の上で怯えていた。灰色たちが迫ってくるのが見えた。それで、きみの名前を呼んだんだよ。声が届いたのがわかった。確かに目と目が合ったから。思わず手を差し伸べたけど、きみの姿は闇に消えた。そしてかわりに、一匹の黒猫が現れたんだ」
「黒猫?」
「ああ。緑の目をした黒猫で、その瞳をエメラルドのように輝かせて、実に優雅な足取りで、ぼくの足もとにやってきた。それこそ、夢か幻かと思ったよ。だけど、身体をなでると温かかった。
黒猫は、ぼくを
「洞窟でヨルセイスに会ったの?」
「ヨルセイスが見つけてくれた、というべきかな。彼はぼくがリュールを持っているのを知っていた。だから、ジョージョーから、エレドゥ峡谷のことと、きみが灰色に連れ去られたことを聞くと、奴らの行き先を察して、この迷宮を目指しながら、ぼくを探してくれたんだ。途中で馬を手放し、洞窟に降りてね。
黒猫のことを話すと、ヨルセイスはその猫なら知っているといった。とても古い魂で、その昔、ダイヤモンドのブレスレットをルシタナに届けた若者の猫だと。
彼は、その若者もここに来ていると感じていたそうだよ。そして、きっと力になってくれると。それで、その若者を探したんだ。まだほんの少年だったけど、ヨルセイスのいったとおりだったよ」
「本当ね……」ユナはしみじみという。
「ユナ」ルドウィンは
「そのあとで一緒に帰るってこと?」
「ああ」
「わたしは会議に出なくていいのね?」
「もちろん」
「わかった」ユナはこたえる。ちょっと残念だけど仕方ない。ルドウィンにとっても世界にとっても、大切なことだ。「いいわ」
「よかった。ありがとう」ルドウィンはいった。
エレタナが戻ってくると、ルドウィンは彼女と少し言葉を交わして出ていった。ユナは横になり、ほんの少し目を閉じたつもりだったのに、気がつくと、部屋のあちこちに置かれた
エレタナは食事を運んでくるといって出ていき、そのあいだに、ヨルセイスとワイス大尉が顔を見せた。リーはまだ眠っているとのことだった。
ヨルセイスはいつものようにやさしく、蝋燭の炎のもとでも、その瞳はレクストゥールと同じ薄い水色の光を
ワイス大尉もユナをあたたかくねぎらい、さきほど夕空に、夏至の前の満月がかかったと教えてくれた。
「とてもきれいで、今日の日を祝福しているようだったよ。この部屋からも、もう少し遅くなれば見えるんじゃないかな」
「特別な力を持つ満月ですから、あなたとリーの回復にも力を与えてくれるでしょう」ヨルセイスがいう。
「恋人のいうことを聞かずに飛び歩いている誰かさんにも」
ワイス大尉のその言葉が終わらないうちに、扉が開いてデューが入ってきた。スープと焼きたてのパン、果物の載ったトレイを抱え、エレタナをともなっている。
「なにかいったか、ワイス?」
デューがいい、みんな笑った。
ヨルセイスとワイス大尉は将軍のもとに戻り、デューは食事が終わるまでそばにいてくれた。思いのほか元気そうで、ユナは心からほっとした。
灰色の毒の刃を受けていたら、これほど幸運ではなかったとエレタナがいうと、デューは、彼らは自分を襲わなかったといった。そして、弓矢部隊には、イーラス大佐がフィーンを狙えと指示していたと。
「矢を受けずにすんだのも幸運だったよ。彼らの矢には、返しがついているからね」デューはいい、エレタナを見つめてにっこりする。「きみが選んだフィーンの精鋭たちは、いとも簡単に彼らの矢を弾き返していたけれど」
||案ずるな。あの男は生かしておくよういってある||
||ランドリアとわたしは、血のつながった従兄弟同士。実に親密な間柄だった||
デューも思い出したのだろうか。彼がランドリアで、グルバダがダイロスだったときのことを。
ユナの脳裏に、黄昏の空中庭園で彼女を見つめてほほえんだ、グルバダの真っ青な瞳がよみがえる。世界にはふたりしかいないかのように惹き寄せられた、南アルディス海のような瞳が。
||そなたも感じたのではないかな? ここでわたしを最初に見たとき、われわれのあいだにある、目には見えぬ強い絆を||
底知れぬ暗黒に呑みこまれてゆくときも、彼はその真っ青な瞳で、最後まで彼女を見つめていた。そのまなざしが、いまもありありと見えるようで、思わず心が揺れた。
ユナは深呼吸をする。
もう終わったのだ。彼女は自分にいいきかせ、そのまなざしを振り払う。
過去よりも、いまは未来を思いたい。
目の前の恋人たちに、この先どんな運命が待っているかはわからなかったが、互いを信頼しきったふたりの姿に、今度こそ、一緒に幸せになってほしいと願わずにはいられなかった。
満月が高く上がり、部屋の窓から見えるまで起きていようと思っていたのに、ユナはそのあと、いつのまにか寝入ってしまった。
けれど、それでよかったのだろう。夢の中で、その特別な月を見ることができたから。
自分の姿はないけれど、どこかその光景の中にいて、空気を肌で感じている||それはそんな夢のひとつだった。
大きな満月がマレンの大地に白銀の光を降りそそぎ、ユナも全身にその清々しい光を浴びていた。
大気はたいそう澄み渡り、まばゆい月の光のもとでも降るような星が見える。そして、満月と星空の下、この白大理石の宮殿を
銀色狼は、輝く
その足もとには、一匹の黒猫が寄り添っていた。月明かりに、エメラルドのような瞳がきらめく。黒猫はその美しい瞳で世界を見つめ、銀色狼の歌に合わせて、長い尾をゆっくりと揺らしていた。
第42章(2 / 2)に栞をはさみました。